9:41
本当に、偶然だった。 普段なら足を運ぶことのない場所。 放課後の図書室は、私には少し静かすぎる。 別に嫌いなわけじゃない。 ただ、本の匂いと、空調の音と、誰も大きな声で話さない空気が重なると、ここは私の居場所じゃないような気がする。 少しかしこまって、背伸びをしているみたいで落ち着かない。 それなのにその日は、なぜか足が止まった。 部活に入っていない私は授業が終わればそのまま帰るのが通常だ。 けれど、昇降口へ向かう途中で、目に入ったのは開けっぱなしになっていた図書室の扉。 どうしてだか、中へ吸い込まれる。 本棚のあいだを歩いて、ちょうど目線の高さにあった適当な一冊を抜き取る。 特別読みたい本があったわけじゃない。 私の選択基準なんて、いつもそんなものだ。 どんな話だろう。 そう思ってページをぱらぱらめくったとき、小さな白い紙切れが落ちた。 拾い上げると、丁寧な字でこう書かれていた。 『6月3日 午後3時 窓際の席で待っています』 今日は5月29日。 そこに書かれていたのは、5日後の日付だった。 誰かのいたずらだろうか、と思った。 でも、いたずらにしては文字がすっきりしている。 急いで書いた感じじゃない。 ちゃんと、誰かに読まれることを考えて書かれた字。 裏返すと、もう一行あった。 『もし見つけたなら、来てください』 ……行くわけない。 そう思ったのに、私はその紙切れを本に挟み直して、貸出カウンターへ持っていった。
名前も知らない約束
5
水曜日の放課後、私の足はいつもより少しだけ速かった。 本の返却期限が今日だから――たぶん、それだけじゃない。 廊下を歩きながら、私は鞄の中の本の重さを何度も確かめていた。 先週からずっと、返却日のことが頭の隅にあった。 名前も知らない男の子に、もう一度会える理由があることを、私は思っていたより嬉しく感じていたのだと思う。 でも、図書室が近づくにつれて、少しずつ不安も大きくなっていく。 今日、彼は本当にいるのだろうか。 あの「また」は、ちゃんと約束になっていたのだろうか。 気づけば歩幅は小さくなっていた。 それでも、目の前にはもう図書室の扉がある。 入らないという選択肢はなかった。 本を返さなければいけない――それは、たしかだから。 図書室の扉を開けると、カウンターには彼がいた。
名前も知らない約束 #2
2
その週は、ずっと雨だった。 月曜も火曜も水曜も、朝から空が重く、昇降口を出るたびに傘を開いた。 雨の日は廊下が少し暗くなって、窓の外が白くにじんで、なんとなく時間の流れが違う気がする。 木曜日の放課後、私は図書室へ向かった。 今日は返却日でも何でもない。 それでも、先週の「調べてみる」という言葉が、ずっと頭の中に残っていた。 瀬野くんがあれからどうしているのか、何か分かったのか、気になったまま一週間が過ぎていた。 扉を開けると、瀬野くんはカウンターの奥の小さな机に座っていた。 何かを広げて、じっとそれを見ている。 「来たよ」と私は告げる。 彼が顔を上げる。 先週と同じ言葉だった。 「ちょうどよかった」と瀬野くんは言って、机の上のものを私の方へ向けた。 「これ、見て」
名前も知らない約束 #3
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翌週の木曜日、私は図書室へ行った。 瀬野くんとは特に約束をしていなかった。 でも扉を開けると、カウンターの奥にいつもの背中があった。 こちらに気づいた彼が、少し目を細める。 「来た」と言葉にはしなかった。 ただ、瀬野くんが椅子を一つ引いて、隣に置く。 それだけで十分だった。 机の上には先週と同じ本が置かれていた。 古い貸出カード、二つの名前、交互に並ぶ日付。 私たちはしばらくそれを眺めながら、どこから手をつけるか考えていた。 「届かなかった手紙、って言ってたよね」 と私はぽつりとこぼした。 「うん」 「手紙が届かなかったとしたら、どこかに残ってるはずだよね。捨てたわけじゃないなら」 「この図書室のどこかに、ってこと?」 「じゃなかったら、わざわざここに残すかな」 瀬野くんは少し考えてから、本棚を見渡した。 何百冊もの背表紙が、静かにこちらを向いている。 「結構昔の手紙だよ? 残ってるかな?」 本来の持ち主ではない誰かが手にしてしまった可能性だってあるだろう。 「残ってるよ、きっと」 そうつぶやいた瀬野くんの横顔は、どこか確信に満ちていた。 「でも全部は調べられないな」 この図書室には、高校生が使うには十分すぎるほどの本がある。 「うん」と小さく私は言った。 「でも、手がかりがあるとしたら、この本に関係した場所じゃないかな。同じ棚とか、同じ著者とか」 それで私たちは、その本が戻されていた棚の周辺を丁寧に調べ始めた。 一冊ずつ抜き取って、ページをめくって、何か挟まっていないか確かめていく。 たいした手がかりがあるとも思えなかったけれど、他の方法は思いつけなかった。
名前も知らない約束 #4
3
翌日の放課後、私は真っ先に図書室へ向かった。 瀬野くんは、もうそこにいた。 窓際の棚の前に立って、背表紙を一冊ずつ目で追っている。 こちらに気づくと、小さく笑ってくれる。 その笑顔に少し安心して、私も隣に並んで棚を見上げた。 窓からの光が、本の背をうっすら照らす。 昨日と同じ棚。 昨日と同じ光。 でも今日は、ここに答えがある気がした。 「端から見ていこう」 そう瀬野くんは言った。 「うん」 一冊ずつ、丁寧に抜き取る。ページをめくって、何も挟まっていなければ戻す。 それを繰り返していく。 たいした会話もなかった。 でも、沈黙が嫌じゃなかった。 最初のころと比べると、ずいぶん変わったなと思う。 三十冊ほど調べたころだった。 瀬野くんが手を止めた。 「……森川」 名前を呼ばれたのは初めてだった。 それだけで、何かが見つかったと分かった。
名前も知らない約束 #5
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