午前二時。 部屋の明かりは消しているのに、天井は青白かった。 スマホの光だ。 ​投稿してから三時間。 俺は何度も画面を更新していた。 ​♡3 ♡3 ♡3 ​変わらない。 もう一度更新。 ​♡4 ​知らないアカウントからの適当な「いいね」。 それだけだった。 タイムラインでは、同じ時間に投稿した有名インフルエンサーが数万件の反応を集めている。 ​俺はスマホをベッドへ投げた。 天井を見上げる。 通知は鳴らない。 誰も俺を見ていない。

画面が不自然に明滅した。 見慣れないアプリが起動している。 ​【REDO:10秒巻き戻しますか?】 ​画面中央に、赤く濁ったボタン。 ​指が勝手に触れた。 ​視界が激しく歪む。 気がつくと、俺はベッドの上に起き上がっていた。 手元を見る。スマホを投げる前の位置にある。 時計を見る。午前一時五十九分五十秒。 ​「……本当に、戻った?」

「あ、ごめん。今なんて言った?」 ​美咲の眉が、ほんの一瞬だけピクリと下がった。 しまりがない、とでも言いたげな目。 ​「ううん、別に。大した話じゃないし」 ​会話が終わる。 気まずい沈黙。 美咲の手が、バッグのスマホへ伸びる。 つまらない男。そう思われた。一発でわかる。 ​ポケットの中で、アプリのボタンを強く押し込んだ。

視界が暗転し、10秒戻る。 ​「ねえ、聞いてる?」 「聞いてるよ。今週末の映画の話だろ? チケット、もう取ってあるんだ」 「えっ? 本当? うれしい!」 ​美咲の顔がパッと華やぐ。 違う。 一回前は「映画なんて興味ない」と言われて失敗した。 二回前は「イタリアンに行こう」と言ってスルーされた。 三回前は。 四回前は。 ​これは五回目の会話だ。 俺は、彼女が100%喜ぶ正解の選択肢を知っている。

「駆くんって不思議だよね」 ​美咲が笑う。 ​「ん?」 「私が欲しい言葉、全部わかるじゃん」 ​俺も笑う。 実際は違う。 わかるまで繰り返しただけだ。 失敗した会話。沈黙。気まずい空気。全部捨てた。 彼女が喜ぶ選択肢だけ残した。 ​「ねえ」 「ん?」 「私たち、前にもこの話した?」 ​美咲が首を傾げる。 ​「え? いや、初めてだけど」 「そっか……。ねえ、その服」 「え?」 「昨日も着てたよね」 「いや、今日初めて下ろしたブランドだけど」 「そうだっけ……」 ​美咲はそれ以上追及せず、また楽しそうに笑った。 妙な胸騒ぎがした。気のせいだ。俺は完璧にやれている。

「じゃあ、次の土曜日は――」 ​言いかけた言葉が、喉に引っかかった。 ​カチ、カチ、カチ。 奇妙な音が耳を刺す。 ​すぐ横の席。 店員が客のカップに、ホットコーヒーを注いでいる。 ​液体がカップに入らない。 宙に浮いたままだ。 ​落ちる。 戻る。 落ちる。 戻る。 ​何十回も。 何百回も。 壊れたGIFみたいに。

周囲を見渡す。 誰も動かない。 息をしていない。 世界が、完全にフリーズしている。 ​「……美咲?」 ​俺の声が震える。 その時、静止した世界の中で、美咲の唇が、ゆっくりと動いた。 ​「ねえ」 ​俺の心臓が止まる。 ​「今の私、何人目?」 ​美咲が笑う。 ​「映画が好きな私?」 ​笑う。 ​「犬派の私?」 ​笑う。 ​「イタリアンが好きな私?」 ​笑う。 顔だけが動く。世界は止まっているのに。 ​「どれが本当の私なの?」

「うわあああああああ!!」 ​俺は悲鳴を上げ、美咲を突き放して店を飛び出した。 街に出る。誰も動かない。音がない。風もない。 ​ポケットからスマホをひったくり、赤いボタンを見る。 画面には、こう表示されていた。 ​【残り:1】 ​助かった。まだ一回戻れる。 出会う前、このアプリを拾う前の時間に。 ​俺は祈るようにボタンを押し込んだ。 ​ピピッ。 何も起きない。世界は止まったままだ。 ​画面を見る。 【残り:1】 ​「なんでだよ! 戻れよ!」 もう一度、ボタンを叩く。 ​【残り:1】 ​押す。 【残り:1】 ​押す。 【残り:1】 ​数字は、永遠に減らない。 俺は、減ることのない最後の「1」の檻の中に、完全に閉じ込められた。

チーン。 ​静寂を引き裂いて、電子音が鳴った。 スマホの画面を見る。 SNSの通知。 ​♡1 ​誰が押した? 世界には、動いている人間なんて俺しかいないのに。 ​画面を更新する。 ​♡2 ♡3 ♡4 ​数字が増えていく。 誰もいないはずの世界で、無機質な数字だけが高速で増えていく。 ​震える指で、俺は「いいね」の詳細画面を開いた。 ​いいねしたユーザー。 ​一人目。駆。 二人目。駆。 三人目。駆。 ​スクロールしても、 スクロールしても、 全部、俺だった。 ​捨ててきたはずの、何万回もの「失敗した俺」が、画面の向こうから俺を見つめていた。

指が止まらない。 何万個もの自分の顔を、狂ったようにスクロールしていく。 ​一番下。 これが、本当の最後の一行。 ​そこに表示された名前に、俺の呼吸が止まった。 ​名前:美咲 ​アイコンは、出会ったあの日の、満面の笑顔。 ​その下に添えられた、彼女からのコメント。 ​『今度は失敗しないでね』 ​(END)