「いっしょにあそぼ」 近所の神社で見知らぬ女の子に声をかけられた。 当時私は小学二年生だった。 同い年くらいの、白っぽいワンピースを着た子。 髪が長くて、ちょっとお人形みたいだなと思ったのを覚えている。 どこの子だろうとは思ったけれど、「いっしょにあそぼ」と言われたら断る理由はなかった。 二人で境内を走り回って、石段を上り下りして、どんぐりをたくさん拾った。 名前はなんだったかなあ。ちゃんと聞いた気がするんだけど、どうしても思い出せない。 それでも一緒に遊んだその時間は楽しかったのを覚えている。 オレンジ色の夕日が山奥に沈む時間。 家に帰らなくちゃ。 そう思って、「一緒に帰ろう」そう女の子に声を掛けようと振り返った。 するとそこには誰もいなかった。 ついさっきまで一緒に遊んでいたのにいつの間に……。 気づいたら境内には私一人がぽつんと立っていた。 翌日クラスでその女の子の話をしたら、そんな子は知らないと誰もが言った。 あそこの神社は細い森の獣道を通って辿り着く地元の人だけが存在を知る神社。 知らない子が神社に行けるはずがない、と誰かが言う。 確かにそうなんだけど。私だけが首を傾げた。 そのうち、自分でもよく分からなくなった。 本当にあの女の子はいたのか、それとも夢だったのか。 どんぐりを拾った記憶だけが、やけに鮮明に残っていた。 そしてあの日以降、女の子の姿を見ることはなかった。
二十六歳になった秋、久しぶりに実家へ帰った。 東京での仕事が少し落ち着いたのと、母に顔を見せようと思ったのと、もう一つ、少し東京から離れたい理由があった。 悩みの種はストーカー。 最初は気のせいだと思っていた。 でも同じ顔を電車で見かける回数が増えて……。 乗る車両を変えても、帰る時間をずらしても、視界の端にその人がいた。 家の近くで足音のようなものを聞くことも続いて、鍵を開ける前に必ず後ろを振り返るようになってから、気のせいとは思えなくなっていた。 警察に相談しようとしたけれど、証拠もなくて、確信もなかった。ただ、じわじわと怖かった。 実家にいれば、少しだけ楽になれる気がした。 きっといい気分転換になるだろうと。 荷物を置いてから、あの神社へ向かう。 子供のころよく遊んだ場所だ。 石段を上ると、夕方の光がまだ境内を照らしていた。 金木犀の匂いが風に乗って鼻孔をくすぐる。秋だな。 女の子がいた。 白っぽいワンピースに長い髪。 小学生くらいに見えるその女の子。 一人で石段の途中に座って、こちらをじっと見ていた。 「いっしょにあそぼ」 気づけば、うん、と答えていた。 一人でさみしいのかなと思ったし、子供と遊ぶくらい無邪気なことをしたかったのかもしれない。
追いかけっこをして、木陰で涼んで、どんぐりを拾った。 境内の隅の木の根元に、まだたくさん落ちていて懐かしかった。 女の子はよく笑って、よく走った。 どこかでこの光景を見たような気がする。 そんな漠然とした思いが胸をかすめた。 空が暗くなってきたころ、二人で石段に並んで座った。遠くで烏が鳴いていた。 「お姉ちゃん、疲れてる? 嫌なことあったの?」 唐突な問いかけだった。 子供に聞かれると、不思議と答えてしまう。 警戒するより先に、言葉が出てきた。 「ちょっとね、怖い思いをしてて」 「どんな?」 「誰かにずっと見られてる気がするんだ。 電車でも、家の近くでも。 気のせいかもしれないけど、そうじゃない気もして」 言いながら、なんで子供にこんな話をしているんだろう、とは思った。 でも止まらなかった。ずっと誰かに話したかったのかもしれない。 女の子は何も言わなかった。 ただ、じっとこちらを見ているだけ。 その目が、子供のものにしては静かすぎる気がして、暗くなってきた境内で、その黒い目だけがはっきりしていた。 「もう帰る時間だね。お家どこ?送っていくよ」 女の子は首を横に振った。 「いいの」 「でも暗いよ、一人は危ない」 「いいの」 もう一度、静かに首を振って、そして笑った。 さっきまでと同じ笑顔のはずなのに、なぜか背筋が冷えた。 上手く笑えていない、というより、笑う必要がないのに笑っている、そういう感じがした。 「じゃあね」 そう声を掛けて立ち上がり、石段を下りて、振り返った。 もうそこに女の子の姿はなかった。
東京に戻ってから、数日。 気配がなかった。 電車であの顔を見かけることがなくなった。 家の近くで誰かの視線を感じることも、なくなった。 鍵を開ける前に後ろを振り返っても、誰もいない。 あれだけずっと続いていた気配が、嘘みたいに消えていた。 ほっとしたけれど、どこか腑に落ちなかった。 何かが変わったというより、何かが終わった感じ。 朝、つけっぱなしのテレビから流れてきたニュースに手が止まった。 都内在住の三十代男性が、河川敷で死亡しているのが見つかった。死因は不明。 生前の顔写真が映し出された瞬間、全身の血が下がる感じがした。 それは電車で、何度も見かけたあの顔だった。 リモコンを持ったまま、しばらく動けなかった。 テレビの音が遠くなる。 窓の外では、風が木の葉を揺らしていた。 そのとき、机の上で小さな音がした。 ころん、と何かが転がる音。 見ると、そこには一粒のどんぐりがあった。 そしてどこからともなく声が聞こえた。 小さな、女の子の声。 ——いっしょにあそぼ。