【ミナがトマトを切る話】 ◇ 「わ、わ、カフカくん、絶対手を離さないでね」 「大丈夫だ! 俺がしっかり支えてっから! ミナは前だけ向いて進め!」 よろよろと左右に傾いて倒れそうな子供用自転車。その不安定な後ろの荷台を支えててくれたのは、あの時のカフカくんだった。 私は力強く握ってくれるその手を絶対的に信用していた。 ペダルに力を込めると、自転車は一気に速度を上げて前へと進み出す。 「ミナ!そのまままっすぐ進め!」 カフカくんの声の通りに、よろよろとふらつきながら前方を凝視する。なんとか電信柱1本分の距離を進んだ、と思った瞬間、前輪がぐらついてガシャンと音を立てて倒れた。 「痛い~…」 膝をすりむき半泣きで振り返ると、カフカくんは遥か後ろに立っていた。いつの間にか、荷台を支えていた手は離されていた。 「すげえじゃん、ミナ! 今ひとりで乗れてたぜ!」 カフカくんはダッと走り寄ってきて、私の頭をわしゃわしゃと撫でてくれた。 「私……ひとりで走ってたの?」 「ああ!」 やっと自転車に乗れるようになったことに、じわじわと嬉しさがこみ上げてきた。 カフカくんはずっと練習に付き合ってくれて、私が挫けそうになっていても励ましてくれた。 「カフカくんのおかげだね!」 小学生の頃の年齢5歳差──6年生と1年生の体格差は大きくて、一緒に遊んでいても、カフカくんにできても私にできないことはたくさんあった。 けれど、私が新しいことが出来るようになるたび、カフカくんは隣で一緒に喜んでくれた。 カフカくんと一緒なら、どんなに苦手なことでも乗り越えられる。 幼い日の私は、そう一点の曇りもなく信じきっていた。 ◇◇◇◇◇ それから20数年の時が経ち── カフカくんと結婚してから数ヶ月、やっと二人での生活にも慣れてきた。 結婚当初、私は包丁が使えないし、カフカくんもあまり料理は得意ではないことに、第3部隊のみんなから「食事の準備はどうするんだ!?」と心配されていた。 でも、ふたりで試行錯誤しながら生活をしてみて、ある現実が見えてきた。 ──任務に追われる日々を送っている私たちは、三食のほとんどを基地内で済ませている。 朝と昼は基地内のコンビニで調達して、夕食は食堂で食べている。食堂のおばちゃんにはいつもお世話になっている。 つまり、これまでどおりのペースで二人が防衛隊の仕事を続けていれば、家ではほとんど料理を作る必要がない……いや時間的に作れないという結論に達した。 無理をして料理をしない。 このやり方が、二人にとって一番穏やかなペースでいられる最適解だと気付いたのだ。 しかしそれでも、買い物にいかないという訳にはいかない。お腹がすいたときの非常食や、お菓子なんかは買い置きしておきたい。 それに、家でゆっくり過ごしたい日の食事はUber Eatsでは味気ない。 そんな時は、二人で一緒にスーパーへ買い物に出かけるのだ。 「ミナ、スーパー行こうぜ。買い出ししとかねーと」 「そうだね。今夜何がいいかなあ?」 ◇ 最寄りスーパーに行くと、私はカゴを手に取り、目当てのお惣菜コーナーへと直行しようとしていた。 しかしカフカくんは、入店してすぐの青果コーナー『本日の特売品』に目を奪われていた。 特売品は真っ赤に輝く大玉の『トマト』。 「うわ、美味そうだな~!」 カフカくんは感嘆を上げた。 「あ~いきなりアレ食いたくなっちまった。なんだっけアレ、トマトとチーズの、イタリアン料理屋に行くと必ずメニューにあるやつ」 「……カプレーゼ?」 「そう、ソレ! 美味いよな~」 スライスしたトマトとモッツァレラチーズにバジルソースをかけた、赤白緑の鮮やかなイタリアンカラーの一皿が、頭に浮かんできた。 カフカくんは顎ヒゲを弄びながら、数秒間真剣な顔で思案した。 そしておもむろに、つやつやしたトマトを2個、買い物カゴへと放り込んだ。 「よし! 俺、家で作るわ!」 宣言するや否や、意気揚々と店内を進みだした。 「あとはチーズだろ、バジルソースと、あとは酒、酒~♪」 そう言うと軽い足取りで乳製品売り場へ向かい、次は店員さんにバジルソースの売場を尋ねていた。 お酒コーナーへ辿り着くと、今度は上機嫌に品定めを始める。 ​「本当はスパークリングワインが合うんだけどな~。今日は暑いからビールがいいかな! それともハイボールにするか?」 ​そんな後ろ姿を、私はただただ呆気に取られて見つめていた。 「カフカくん、カプレーゼの作り方なんて誰に教わったんだ?」 「あぁっ? 市川に。市川が前に家で手際よく作ってくれてさ。これなら俺でも作れるわ、と思って教えてもらったんだ。簡単だけどうめえんだよな~」 「ふぅん……市川がね」 ​私は複雑な吐息を漏らした。 ◇ 帰宅後、カフカくんはいそいそとシンク下の扉から新品の包丁を取り出した。その包丁が使われるのは今日が初めてかもしれない。 「ミナ!今日はもう出かける用事ねえし、呑んでいいよな?!」 鼻歌混じりにまな板に向かうカフカくんの横顔は、まるでカフカ隊の旗を持った少年のように楽しそうだった。 「まずはトマトっと……」 初めて使う包丁の切れ味は抜群のようだ。 手際良く、ストン、ストンとトマトを輪切りにしていく。 私はその様子を近くでじっと見つめていた。一見、とても簡単そうに見えた。 カフカくんが2個目のトマトに手を伸ばしたその瞬間、私は意を決して声をあげた。 それはきっと、楽しそうなカフカくんにつられてしまったから。 「ねえ、私もトマトを切ってみたい」 「えっ?」 「半分に切るぐらいなら、私もできる……と思う」 「大丈夫なのか? 包丁使うんだぞ?」 「それぐらいわかってる、でもちょっとだけ……やってみたい」 私はまっすぐ真剣にカフカくんを見上げた。 すると視線に押されて、カフカくんは“大丈夫か?”という言葉を飲み込んだ。 恐る恐る包丁の柄を握ると、[[rb:刃 > やいば]]がきらめいてこちらが脅されているように見えた。 対抗するために、「左手は猫の手で……」と小さく呪文を唱える。 私が切ってみると言い出したものの、いざ鋭利な包丁の刃を前にすると怖じ気づいてしまう。 それでも震える手でトマトをまな板に乗せ、挑戦しようと覚悟を決めた。 カフカくんが1歩後ずさって離れようとしたのを、気配で察した。 「だめ!……行かないで」 Tシャツの裾をくいっと引っ張って、近くに引き留める。 「……隣で、見てて」 か細くなっていく私の声を聞いて、​カフカくんは短く頷き、私の斜め後方に寄り添うように立った。 気を取り直し、ふぅと深く息を吐き出して、集中力を高める。 ​まな板の上のトマトに意識を集中させた瞬間、私の身体から、まるで専用武器を構えるときのような緊迫したオーラが立ち上る。 脳裏をよぎったのは、防衛隊に入隊したばかりの頃、初めて大型専用武器をあてがわれた時の記憶。 巨大な本獣を前にして「あれを射抜いてみせろ」と突きつけられた時の、あの緊張感。 他人が見れば「たかがトマトと包丁」と笑うかもしれない。けれど私にとってはそれぐらい重大なことだった。 自分にはできない── かつてあの過酷な戦場で絶望を感じた時。 「隣にいてほしい」と願ったのは、カフカくんの姿だった。 あの時振り返った後方には、カフカくんがいなかった。だから、ひとりで泣きながら歯を食いしばるしかなかった。 ──けれど、今は。 あの時と同じく、私は斜め後方を振り返ってみる。 するとそこにはカフカくんがいて、真っ直ぐな瞳で“大丈夫だ”と応援してくれている。 私の緊迫したオーラは、カフカくんのぬくもりでかき消されていった。 ふたたび​深く息を吸い込み、包丁を力強く握る。 それでも指先が、小さなトマトを前に緊張で小刻みに震えている。 「大丈夫だ! 俺がしっかり見てっから! ミナは手元だけに集中しろ!」 「了。わかった」 ​後ろからの声に導かれるように、ゆっくりと包丁の刃を下ろす。 ぷちり、と小さく皮が弾ける音がして、トマトの果肉に刃が沈んでいった。 ストン。 まな板を叩いた手応えと共に、切れ味のいい包丁は、綺麗にトマトを真っ二つにしていた。 ​「できた……!」 興奮して​斜め後方を振り返ると、そこには弾けんばかりのカフカくんの笑顔があった。 「出来たじゃねえか! すげえぞミナ!」 ​あの幼い頃と何一つ変わらない、無邪気な笑顔で迎えてくれた。 この1個のトマトは、私にとって大きな前進だった。 盛り付けてバジルソースを掛けると、素人が切った不揃いな形でもトマトとモッツァレラチーズの瑞々しさのおかげで、とても美味しそうに見える。 ゴクリとカフカくんの喉が鳴ったのが聞こえた。 「うまそうだ、早く食おうぜ!」 日当たりのいいベランダで、太陽の光を浴びた真っ赤なトマトを頬張る。 フレッシュチーズはとろりとミルクの味がして、最高のマリアージュだ。 冷えたハイボールを開けて、カプレーゼとともに流し込む。 「「美味しいいいっ!」」 ふたりは声を揃えて感嘆の声を上げた。 「ミナがトマトを切ってみるって言い出した時は、どうなるかと思ったぜ。だってあんなに刃物嫌がってたじゃねえか」 「うん…苦手だったんだけど、勇気を出してやってみたら意外と上手くできて、自分でもびっくりした。カフカくんのおかげだね」 トマトの最後の一切れをカフカくんが名残惜しそうにつついたのを見て、私は提案してみた。 「これからは、お休みの日にふたりで一緒に料理を作るなんてのもいいかもしれないね」 「それいいな! じゃあ何作ってみる?」 ふたりのシフトを確認して次の休みを確かめた。 「お。8月5日、どっちも休みだな」 「え、この日って……」 カフカくんの顔はたちまち綻んだ。 「カフカくんの誕生日じゃないか! すごい偶然! ね、何食べたい? カフカくんの好きなもの!」 「リクエストしていいのか?! それじゃ、『カレー』!」 子供のように無邪気な声が上がった。 「私、野菜を切るのがんばるから」 胸を張って張り切ると、カフカくんは口を押さえて笑いをこらえた。 「あの伝説の『丸ごとぶっ込み野菜カレー』じゃなくなるんだな……」 「もう!そのネタは禁止! 私はもう、刃物苦手を克服したんだから!」 「そうだよな」 カフカくんはまた、くしゃくしゃと私の頭を撫でてくれた。 「一緒に切るの、がんばろうな!」 この笑顔を見るたびに私の心はときめく。 ◇ 『好きな人に料理を作ってあげたい』 ──ずっと料理は苦手だと思っていた私が、こんな気持ちになるなんて、思ってもみなかった。 もっといろんな料理に挑戦してみようと思える。 カフカくんはきっと新しいメニューのたびに、隣で一緒に喜んでくれる。 私を突き動かす原動力は、いつだってカフカくんの笑顔だ。 カフカくんと一緒なら、どんな苦手だって乗り越えていける── 幼い日の確信は、今、紛れもない真実になった。 「これからもずっと、隣にいてね」 「もちろんじゃねえか! 俺たち夫婦だろ!」