四月だというのに、夜風はまだ少し冷たい。傘を持たずに出てきたことを、僕は商店街の軒先で後悔していた。仕事帰り、ひと駅手前で電車を降りたのは、ただなんとなくだった。歩いているうちに、空からぽつぽつと落ちはじめた雨は、やがて本降りになった。 雨脚が、だんだん強くなる。雨宿りのつもりで飛び込んだのは、これまで一度も入ったことのない、小さな古書店だった。看板の文字は半分かすれていて、ガラス越しに、暖色の灯りがやわらかくにじんで見えた。 扉を開けると、軋んだ音とともに、古い紙とコーヒーの匂いがした。天井まで届く本棚にぐるりと囲まれると、外の雨の音が、ふいに遠ざかる。濡れた靴の先から、床にぽたりと雫が落ちた。 > ?「いらっしゃいませ」 カウンターの奥から、静かな声がした。顔を上げて、僕は思わず立ち止まる。 店番をしていたのは——高校で同じクラスだった、葉山さんだった。少し短くなった髪を耳にかけて、彼女もまた、僕を見たまま動きを止めている。 > 葉山「……あれ。もしかして、佐倉くん?」 > > 佐倉「うん、久しぶり。葉山さん、ここで働いてるんだ?」 > > 葉山「働いてるっていうか……祖母の店を継いだの。三年前から、ひとりでね」 雨に濡れた僕の肩が冷えているのに気づいたのか、彼女はカウンターの内側で、湯気の立つカップをふたつ用意しはじめた。豆を挽く小さな音が、雨の音にそっと混ざる。 > 葉山「座っていって。どうせこの雨じゃ、しばらく動けないでしょう」 卒業してから、たぶん七年になる。後ろの席でいつも本ばかり読んでいた彼女は、少し大人びて、それでも笑い方は昔のままだった。 思い出す。あのころの僕は、休み時間になると、彼女が開いている本の表紙を、それとなく盗み見ていた。話しかける勇気は、とうとう出せなかった。ただ一度だけ、机に置きっぱなしだった文庫を指して「それ、貸して」と言えた日があって、それが僕にとっての、精いっぱいだった。 > 葉山「佐倉くんは、いま何してるの?」 > > 佐倉「設計の仕事。一日じゅう、図面ばかり描いてるよ。……正直、本なんて、もう何年も読んでなかった」 > > 葉山「意外。あんなに、私の本を借りたがってたのに」 > > 佐倉「借りたがってたんじゃなくて……たぶん、きっかけが欲しかっただけなんだ」 そう言ってから、自分でも驚くほど素直に口に出せたことに、少し照れる。葉山さんは何も言わず、ただ小さくうなずいて、湯気の立つカップを、そっと僕のほうへ滑らせた。 > 葉山「この店を継ぐって決めたとき、まわりには、ずいぶん反対されたんだけどね」 > > 佐倉「でも、続けてる」 > > 葉山「うん。だって——待ってる本も、あるから」 僕は鞄の中をまさぐって、一冊の文庫本を取り出した。角は丸くすり減り、表紙は、すっかり日に焼けている。 > 佐倉「これ、覚えてる? 高二のとき借りたまま……返しそびれて、結局ずっと持ってたんだ」 > > 葉山「……うそ。『星を渡る人』。ずっと、探してたのに」 > > 葉山「あなたが、持ってたんだ」 彼女は本を受け取ると、ページをそっとめくった。あいだから、古い映画の半券が、しおり代わりに顔を出す。あのころ、ひとりで観に行った、もう題名も思い出せない映画のものだった。 > 葉山「これ……ずっと、はさんだままだったんだ」 > > 佐倉「なんとなく、捨てられなくてさ。挟んでたことすら、忘れてたくらいなのに」 渡された熱いコーヒーを、ひとくち飲む。舌の上に広がる苦みが、不思議と懐かしかった。しばらくは、雨の音と、ページをめくる小さな音だけが、店内を満たしていた。 > 葉山「正直に言うとね。あの本があった棚、ずっと一冊ぶんだけ、空けてあったの」 > > 葉山「いつか、返しに来てくれる気がして」 > > 佐倉「……七年も?」 > > 葉山「七年も」 彼女は、いたずらっぽく笑った。その表情に、僕の中で長いあいだ固まっていた何かが、ゆっくりとほどけていく。言えずにいた言葉の代わりに、僕はただ、もう一口、コーヒーを飲んだ。 この七年のあいだに、たくさんのことが変わった。住む街も、付き合う人も、夜の過ごし方も。それでも、こうして同じ一冊を挟んで向かい合っていると、あのころの教室の空気が、すぐそばまで戻ってくるようだった。変わらないものも、ちゃんとあるのだと思えた。 窓の外で、雨の音が、いつのまにかやわらかくなっている。ガラスを伝う雫が、店の灯りを受けて、ゆっくりと滑り落ちていく。それでも——もう少しだけ、ここにいたいと思った。 > 佐倉「……また、本を借りに来てもいいかな」 > > 葉山「どうぞ。——今度はちゃんと、返しに来てね」 空いていた棚の、一冊ぶんの隙間が、今日ようやく埋まった。そして僕には、次にここへ来るための理由が、ちゃんと出来たのだった。 帰り道、まだ小雨は残っていたけれど、もう傘がないことは、少しも気にならなかった。
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