高校生にもなった僕に、うちの母親はこんなことを言う。 「異世界は一日一時間!」  みんなはもっとやっている。みんなはもっと楽しんでいるのに、僕は七日で七時間。いわく教育に悪いのだそうだ。そうだろうか。  女神様にすごくいいか悪いかのステータスをもらって、亜人の少女と仲良くなって、  受付嬢の青髪に見惚れて、はじめはちいさな魔法を覚えて、それをうまくつかって村の危機を救ったり、王家の人と友達になったりして。

 お母さんもお父さんもタクヤくらいのころは勉強したのよ、とも言われる。でも両親は僕に勉強を教えられない。もう忘れちゃったらしい。  いつか忘れることを必死に覚えることと、きっと忘れない生涯の思い出をつくること、本当に大切なのはどっちだろう。 「異世界転移に決まってる!」  古いけど、うちにも転移の魔法陣がある。黒いマットに刻まれたそれを学生鞄に押しこんで、不登校で幼馴染で引きこもりの高郷レイナの家に駆けこんだ。  この時間はご両親はいない。でもあいつの部屋の窓の鍵はいつも開いている。そこから外出して水とか買いにいくためらしい。

「な、なに?」  もうとっくに卒業した中学校の赤いジャージを着てシングルセミのベッドの上でごろごろしていたレイナは、ショートカットの黒髪を振りまいて、突然開いた窓のサンをまたぐ僕を見ていた。 「俺も学校さぼった。『異世界転移』したいんだ。一時間なんかじゃ足りない。レイナ、なれてるだろ。今日一日で、異世界を楽しみつくしたい。つきあってくれ。」 「……え? ……異世界、は、いいけど。たっくん、そういうの興味あったんだ。」  ちゃぶ台を壁にかけ、パソコン机の椅子をどかして、部屋のまんなかにマットを広げる。その上にレイナと手を取りあって立ち、彼女がなにか唱えるのを聞く。  僕が知っているものよりも長い呪文だった。転移先の指定でもしているらしい。

 まばたきした目が開かなくなった。まぶたの裏が赤く見えて、ぽうっと熱くなる。肌に風を感じた。むふんと火照った、湿り気のある風だった。 「いいよ、もう目を開けられる。」

 レイナがそう言った。そこは森のそばにある農村の、木製の納屋のなかだった。目の前にどでかい白い角のある牛の顔があってびびった。  振りむくとレイナが立っていた。でも一目見たのではわからなかった。  赤髪のロングヘアで青色の瞳、両肩まわりとコルセットから腰のあたりと腕とすねあてのメタルとチェーンの防具を、黒いタイツの上に着こんだ格好で、ハルバードみたいなどでかい斧を背負っていた。 「魔法とかいろいろ覚えたけどさ、結局ぶん殴るのがいちばん効率いいんだよね。」  僕はブレザーのままだった。勉強の合間に異世界に行くんじゃ魔法も覚えられないから、それは僕の夢だった。効率なんか知らない。絶対にいい魔法を覚えてやる。

 それならレベル上げだ、とギルドに向かった。僕らは走って街に駆けこんだ。  受付は冒険者を引退したムキムキの男だった。座高だけで二メートルくらいあるように見えた。まだ若いのに挫折してやめたと話していたのを聞いて、僕は思わずびびったけど、レイナがあたりまえみたいにゴブリン討伐のクエストを受けたから、黙って同行した。  ほとんどぜんぶレイナが倒した。走ってギルドに戻って報告し、報酬を受けとる。 「……これでレベルがあがったの? なにか魔法を覚えたの?」 「いや? たっくん適性ないし。でも冒険者登録をすませてからじゃないと違法なの。あのね、」

 彼女が言うには、ここではだれでも最初からひとつ、つかえる魔法があるらしい。どんな汚水も飲み水に変える魔法だそうだ。  そのおかげで転移者ならだれでも、僻地に行けば食いっぱぐれなくてすむみたいだった。 「容器にすくった水に手のひらをかざして、唱えるの。『アクリア』。」  もともと綺麗な川の水をガラスのコップにすくったものだから、僕には変化がわからなかった。ぶわぁっと、こう、光とかオーラみたいなものも出なかった。 「なったの? 綺麗な、飲み水に?」 「まだなにもしてない。たっくんがやってみたいんでしょう? はい。」  レイナは半笑いでそう言って、コップを僕に近づけた。すこし汚れたブレザーの格好で、ぴかぴかの女戦士の防具を着た彼女を疑いの目でちらちら見つつ、彼女が支えるコップに右手をかざした。 「『アクリア』。」  やっぱり、光もなにも出なかった。なったの? とまた尋ねると、彼女はにやりと笑い、コップのふちに唇にあてて、底を太陽にむけてごくごく飲んだ。ぷはぁとやって、 「なってるよ。はい、次は、なにしたい?」  次、次か。レイナを前に、亜人の少女と仲良しになりたい、とは言いづらく、受付嬢でも青でもないけど、赤髪に見惚れる機会はもうたくさんあって、ちいさな魔法はつかえたし、あとは、

 僕のわがままを、レイナはすべて聞いてくれた。瞬間移動の魔法をつかってあちこちの街や村、観光の名所なのだとかいう風景に飛び、海辺の屋敷についたときは、レイナのここでの別荘だと言って軽く案内してくれた。  レイナはなれた景色をただ流すカラスみたいな目であたりを見て、面倒くさそうにもしていたけど、僕が急かしてあんまりはしゃいでいたからか、ときどきは笑って、小学生のころに毎日見せてくれていたのとおんなじ笑顔をむけてくれた。  村を襲った盗賊が井戸にまいた毒を〝アクリア〟で丹念に、村の人に魔法を増幅させるコツを教わって、ぜんぶ浄化してまわって英雄あつかいされた。  王都でウサギの獣人の女の子とすれ違って、めっちゃいいにおいがしてしあわせだった。  夕暮れ前に城下を見おろした王子様の冠が、人混みのなかでレイナにおぶってもらって、ほんのすこしだけ見えた。  ランタン頭の書生がいた。関わらないのが無難らしい。  色さえくすんだブレザーのまま、僕はレイナの手をとって、一緒に帰還の呪文を唱えた。

「あーおもしろかった。ありがとう、レイナ。でもあれだな、飯はこっちのほうがうまいな。おごるから行こうよ。」  彼女はやっぱり面倒くさそうにしていたけど、僕がちゃぶ台とか椅子とか部屋を戻している間に、黒いタートルネックのニットとリネンの水玉のスカートに着がえ、伊達メガネまでかけて、廊下を歩いて現れた。  僕は先に窓から外に出て、ブレザーをばさばさはたいて待っていた。スカートだからつらそうに、窓のふちに足をかけるのを、すこし手伝ってやって、王都を歩いたふたりのまま、チキン南蛮を食べにむかった。電線の下を歩いた。  ハードストロングと底に書いてあるコップをふたつ、水を注いで持ってきて、ふたりで手を重ねて〝アクリア〟とこっそり言った。ミネラルウォーターはいつもうまい。