「や、やめてくれー!!」 ……どうして俺は、こんなことになってしまったんだ。 ただ淡々と暮らしていただけなのに――
その日はいつもと同じように仕事が終わってスーパーに立ち寄り、値引きをされたお惣菜を買って帰宅した。家の時計は21時を指している。 「ただいまー」 誰もいない一人暮らしの1DK。それでも毎日、家の扉を開けると言ってしまう。誰かから返事が来るということはないのに。 流し台に惣菜が入った袋を置き、洗面台で手を洗ってから部屋着に着替える。 そして流し台に置いていた惣菜が入った袋と割り箸を手に取ってソファへ移動し、テーブルに持ってきたものを置いて、テレビをつけた。
これがいつもの俺のルーティンだ。 何も変わらない。なにも変えようとしない。 社会人になって10年が過ぎた今も、ずっと変わらない。 なのに―― 「おめでとうございま~す! あなたは選ばれし1000万人に1人です♪」 突然、そんな明るい声が聞こえてきた。どうやらテレビから聞こえているらしい。 「バラエティー番組? それかCMか?」 1000万人に1人だと、今の日本人は1億2000万人ちょっとになっているから、12人しか選ばれない計算になるな、と、どうでもいいことを考えてしまった。 「あなたはどんな未来をご所望ですか? 人のものを奪っても犯罪にならない特権? それとも人を自由に殺せる権利? お好きなものを差し上げます!」 「は?」 つい言葉が漏れる。あまりに悪趣味な言葉がテレビから流れてきたからだ。そこで気が付いた。テレビの画面が真っ黒になっていることに。 「え、どういうことだ?」 いつもテレビで番組を流し、スマホで漫画を読みながら食事をするのが日常化していたため、テレビを見ていなかった。だが久しぶりに見たテレビの画面は……。 「さぁさぁ、どちらが欲しいですか?」 真っ暗な画面から、場違いな明るい声が聞こえてくるという事実が、急に怖くなってきた。 俺は立ち上がってこの場から離れようとしたが、身体が動かない。気が付くと、両手両足は誰かの手で抑えられていた。……手首から上がない、<誰か>の手が。
「や、やめてくれー!!」 次の瞬間、記憶がフラッシュバックする。
「いつもいつもいつも……小言ばかり言いやがって! もう我慢の限界だ!」 「やめろ! ○○君。包丁を振りますな!」 「もうお前の言うことなんて聞かない。聞きたくねーんだよ!!」 グサッ 「キャー! いやー!」 前が何も見えなくなり暗転する。 何が起きている……?
手がヌルヌルしている気がする。 いつの間にか動けるようになっていたが、身体の感覚がおかしい。 何も見えない状態だから余計にそう感じるのだろうか? 「ねぇ」 聞き覚えのある声が聞こえてくる。と同時に、急に視界が広がっていく。 「○○。私、あのブランドのバッグが欲しいなー」 見知った女が隣にいる。どうやら俺は表参道を歩いているようだ。
「あっ! あそこの時計屋さんに入りましょう。新作が出たって聞いたの。いいでしょー」 女は豪華な門構えの時計屋の方に歩いていく。 と、そこに前から男が歩いてきた。その男は女の腕を掴み、こちらを睨みつける。 「俺の女に手を出すんじゃねぇ! ほら、行くぞ!」 「あ、ちょっと待ってよ~」 女は何の言い訳もせずに男と立ち去ってしまった。 街の喧騒だけが聞こえ、次第に目の前が暗くなってくる。
はっと気が付くと、また自分の部屋に戻っていた。 「いったい何だったんだ――」
「おかえりなさい」 「!?」 気が付くと隣には、<知らない女>が座っていた。 「だ、誰!?」 「……おめでとうございま~す!」 その声は真っ暗なテレビから聞こえてきた、あの声だ。 テレビの電源は切れており、スマホの画面も真っ暗になっている。俺はいつの間にか眠っていたのだろうか? ……けど、テーブルの上に置いていた惣菜も、その容器もない。 「意外と冷静に物事を見られる人なんですね」 女は首を傾げながら、そう言う。 「君は……誰だ?」 「私の顔に見覚えはないですか?」 「……ないと思う」 「本当に?」 何度も聞かれると不安になるが、やはり見覚えはないように思った。 「そうですか。それで、どちらがいいんですか?」 「どちらって……」 「だってあなたはすでに犯罪者なんですよ? 選ばないと捕まります」 「えっ」 そう言われると、先ほど見た二つのシーンで、「○○」と呼ばれていたのが自分だったように思えてくる。 俺が人を殺した? そういえば、途中で手がヌルヌルしていたと感じたんだった。 そう思って見てみると、俺の両手は血に染まっていた。 「ひぃっ!?」 しかし、もう一度改めて見ると、両手に血はついていなかった。先ほどの血は幻覚だったのだろう。 「血は洗えば綺麗になりますもんね」 「な、何のこと?」 「だって人殺しじゃないですか」 ぷちっという音が聞こえたかと思うと、俺はいつの間にか隣にいた女を押し倒し、馬乗りになっていた。
「私も殺す気ですか?」 「俺は人殺しじゃない!」 「この体勢で言われても……」 俺の両手は女の首を軽く絞めている。 「俺は人を殺してなんかない!」 「じゃあ、これから殺すということですか?」 「うるさい……。うるさい!!!」 両手に力が入り、俺の中のアドレナリンが噴き出す。このままでは本当に女は死んでしまうだろう。 「ぐっ……」 そして女は抵抗をするわけでもなく、俺の手によって生命を失った。 「あ~あ。〇〇にプレゼントを持ってきただけなのに、殺しちゃうなんて」 「!?」 今自分の手で殺したはずの女の声が、真後ろから聞こえてくる。勢いよく振り向くと――
「な、なんで……」 そこには、今殺したばかりの女がソファに座っていた。そして先ほど殺した女の姿はすでに消えている。 「そんなに私を殺したいんですか?」 「殺し……いや、俺は、ただ……」 血のついていない両手を見て、息を整える。 「俺がしたかったことは……」 そこまで言ってから、自分が本当は何をしたかったのかを考える。だが、何も思い浮かばない。いや、思い浮かべられないと言った方がいいかもしれない。 なぜなら俺は全てを奪われたからだ。 見ないようにしていた記憶がよみがえる。 本気で好きになった女性のためにできることは何でもしようと思っていた。その結果、利息の高いローンにまで手を付けることになった。それなのに彼女は俺を裏切り、簡単に俺を捨てたのだ。 俺に残ったのは多額の借金だけ。何もかも嫌になっても仕事には行かなくてはいけない。けど行ったら行ったで、上司からいびられ、鞄に忍ばせていた包丁を取り出し……自殺した。 「あれ……? 俺は誰も殺してないのか?」 「いいえ、自分を殺しました」 女の声のトーンが、先ほどまでとは違い低いものになっている。 「あぁ……そういうことか。これは全部、死後の世界のことなんだな。俺がまだ生きていると思い込んでいたから、こんな夢を」 「いいえ、厳密にはまだ死んでいません。本当のあなたは今、病院で生死をさまよっている状態です。このままここにいれば、本当に死んでしまいますが」 「そうなんだ。ということは君は死神か何かか? 気が動転していたとはいえ、俺は死神を殺そうとしたんだな」 すべてに納得がいき、ようやく女のことを真正面から見ることができた。女の背中には大きな鎌がある。 「さぁ、俺を連れて行ってくれ」 「このまま死んでもいいんですか? 先ほど言ったプレゼントは、本当にあげることができるんですよ」 「プレゼント……?」 そう言われて、女の最初の言葉を思い出す。 「いや、いらない。俺はもう自分の手を赤く染めたくないし、貢がされていた彼女にも未練はないから」 「そうですか……わかりました」 <死神>がそう言うと、俺の意識はだんだんと薄れていった。
一か月後。 俺は奇跡的に一命をとりとめ、社会復帰をしていた。あれは夢だったのか、それとも現実だったのかはわからない。だが女の首を絞めた感覚だけが妙に手に残っている。 俺は本当に人を殺していないのだろうか? ……それは俺にもわからない。