翌週の木曜日、私は図書室へ行った。 瀬野くんとは特に約束をしていなかった。 でも扉を開けると、カウンターの奥にいつもの背中があった。 こちらに気づいた彼が、少し目を細める。 「来た」と言葉にはしなかった。 ただ、瀬野くんが椅子を一つ引いて、隣に置く。 それだけで十分だった。 机の上には先週と同じ本が置かれていた。 古い貸出カード、二つの名前、交互に並ぶ日付。 私たちはしばらくそれを眺めながら、どこから手をつけるか考えていた。 「届かなかった手紙、って言ってたよね」 と私はぽつりとこぼした。 「うん」 「手紙が届かなかったとしたら、どこかに残ってるはずだよね。捨てたわけじゃないなら」 「この図書室のどこかに、ってこと?」 「じゃなかったら、わざわざここに残すかな」 瀬野くんは少し考えてから、本棚を見渡した。 何百冊もの背表紙が、静かにこちらを向いている。 「結構昔の手紙だよ? 残ってるかな?」 本来の持ち主ではない誰かが手にしてしまった可能性だってあるだろう。 「残ってるよ、きっと」 そうつぶやいた瀬野くんの横顔は、どこか確信に満ちていた。 「でも全部は調べられないな」 この図書室には、高校生が使うには十分すぎるほどの本がある。 「うん」と小さく私は言った。 「でも、手がかりがあるとしたら、この本に関係した場所じゃないかな。同じ棚とか、同じ著者とか」 それで私たちは、その本が戻されていた棚の周辺を丁寧に調べ始めた。 一冊ずつ抜き取って、ページをめくって、何か挟まっていないか確かめていく。 たいした手がかりがあるとも思えなかったけれど、他の方法は思いつけなかった。
三十分ほど経ったころ、図書室の扉が開いた。 顔を向けると、水野先生が入ってくるところだった。 国語担当の、女性の先生。 年齢をはっきりと聞いたことはないけれど、母と同じくらいだろうか。 授業中はよく本の話をする人で、読書家なんだろうなと前から思っていた。 今日は何か資料を探しに来たらしく、メモを手に持ちながら棚の方へ歩いてきた。 私たちが本を抜き差ししているのを見て、先生は歩みを止めた。 「何を調べてるの?」 「古い本を探してて」と瀬野くんが答えた。 「この棚のあたりにあるはずなんですけど」 先生はふうん、と言いながら隣の棚に目をやった。 それから、瀬野くんが机に置いていた本に視線が止まった。 「あら」 小さな声だった。 先生はゆっくりと近づいてきて、その本の表紙に目を向ける。 手に取るわけでもなく、ただじっと見ている。 「懐かしい本ね」 「知ってるんですか」と私は聞いた。 「知ってるというか」と先生は言って、少し間を置いた。 「私も昔、借りたことがある本だから。この図書室で」 心臓が、一度だけ強く打った。 「この図書室で、ですか」と瀬野くんが言った。 先生は少し驚いたように瀬野くんを見てから、小さく笑った。 「そう。ここの生徒だったから。途中で引っ越しちゃったけど」
先生が棚の方へ歩いていってしまうと、私と瀬野くんはしばらく動けなかった。 途中で引っ越した。 その言葉が、頭の中でゆっくり広がっていく。 貸出カードの日付は六月で終わっていた。 夏休み前に突然途切れていた理由が、それなら説明できる。 引っ越しが決まって、本を返して、それきりになった。 手紙を渡すつもりだったのに、渡せないまま終わった。 「先生の旧姓、知ってる?」と瀬野くんが小声で聞いてきた。 「知らない」と私も小声で返した。 「でも、下の名前は確か茜。水野茜先生だったと思う」 そういえば、今日もらったプリントに名前が載っていた。 鞄の中から今日もらったプリントを取り出して、瀬野くんに見せた。 そこには確かに、水野茜という名前が印刷されていた。 「……気になるね」 瀬野くんが先に言った。 私が先週言ったのと、同じ言葉。 資料を見つけた先生が、棚の前でメモに何かを書き込んでいる。 その横顔を、私はそっと盗み見た。 授業中に見る顔と同じなのに、今日は少し違って見える。 この人が、この図書室で誰かと本を交換していたかもしれない。 声に出せない言葉を、一冊の本に挟んで、棚に返していたかもしれない。 「またね」と先生は言って、資料を抱えて図書室を出ていった。 扉が閉まると、静かになった。私と瀬野くんは顔を見合わせた。 何か言おうとしたけれど、言葉が出てこなかった。
しばらくして、瀬野くんがもう一度本を手に取った。 「貸出カード、もう一回見てみる」 私はその手元を見ていた。 先週も同じことをして、古い紙が出てきたのだ。 今日も何かあるだろうか。 瀬野くんの指がページの端をそっとめくっていく。 表紙の裏、扉のページ、奥付のあたり。 一枚一枚、丁寧に確かめていく。 「……あった」 今度は本のページのあいだから、小さな紙が出てきた。 これまでのものとは少し違う。折り畳まれていなくて、一枚がそのまま挟まっていた。 広げると、あの丁寧な字だった。最初のメモと同じ筆跡。 『最後の一冊は、窓際にあります』 私たちは同時に窓の方を見た。 夕方の光が斜めに差し込んで、窓際の棚をオレンジ色に照らしている。 何列もの本が、その光の中に並んでいた。 ちょうど下校のチャイムが鳴った。私たちも図書室を後にしなければいけない時間だ。 「明日、来れる?」と瀬野くんが言った。 「来る」と私は言った。 窓の外の夕焼けがやけに眩しく映った。