螺旋を盗まれた女(ひと) side:B
夕暮れの白砂を“海鳴き貝”の泣き声が遠ざかってゆく。 「あの子、登り始めたみたいね」 女店主が少し寂しそうに微笑むと、モヤシ貝がサワサワと揺れた。 「フフ、あなたも心配性ね。 でも戻ってきても、もうあの子にはこの店は見えない。 だってもう進んじゃったんだから。それでいいのよ」 女店主が店先の“名前のまだない巻貝”をそっと撫でる。
「人生は螺旋でできてる。それをこの子たちが教えてくれる」 巻貝の奥で小さな星々がかすかに瞬く。 「春に生まれて登り始めた子も、昨日、大切な人が亡くなって降りて行く子もみんな同じ、“螺旋景”の中を歩いている……」 店内に並ぶ飼い殻ケースのどこかから寂しい“ほら貝”のような声があがる。 「そう、“空鳴き貝”さんの言う通り。この店は――“私”だけはどちらにも向かわない。一ミリも上に進まず、下にも戻らず、始まりも、終わりもなく、ずっとここに在り続けてしまう……。毎日同じようでいてけして同じ日は二度と来ない、あの子たちが住む“螺旋景の世界”とは違う」 静けさが満ち始めた店内で、奥壁に掛けられたアンティーク柱時計の振り子がカチコチと音を立てる。 「もちろん、ひとたびあの子たちがこのお店を必要になった時――まるで柱時計の短針と長針がある日ぴったりと重なるみたいに出逢えることもある……」 ――と、ふいに“名前のまだない巻貝”が夕闇の中で薄く輝き、その殻奥に天の川のような光源を纏い始めた。 「あら、またお客様が迷い込んできたのかしら」 女店主がすっと窓辺に移動して外の様子を伺う。 「心配しないで。私にできることは、そっと忘れ物を差し出して見せるだけ」 店内の飼い殻たちが返事をするように一斉にカタカタと震える。 「飼い殻屋は、常に飼い殻が必要になった人の傍にある。普段はけして見えないけれど本当はずっと傍にいる……」
女店主が軽く腕まくりしながら店主用カウンターへと戻っていく。 突き出た腕は磁器のように白く滑らかでキラキラときめ細かい不思議な光沢を放っていた。 「それは――“ここ”にきまぐれに刺さった棒杭みたく留まり続けてる私にしか出来ない。私はもう、螺旋を失くしちゃったから……」 店先のモヤシ貝がまたサワサワと揺れた。 <了>