昼休憩の社員食堂。 僕、佐伯恒一はいつものようにスマートフォンを立て掛け、イヤホンを両耳に挿した。 画面の中では、銀髪のVTuberが緩やかな声で話している。月城ルナ。登録者数およそ1万人。深夜の配信が中心で、ラジオのようなゆったりとした空気が好きで観始めた。 弁当の蓋を開けながら、昨夜のアーカイブの続きを再生する。 大きな企画があるわけでも、派手なことをするわけでもない。ただ、そこにいる。リスナーのコメントを丁寧に拾って、笑って、時々しんみりして。 それだけなのに、「また観たい」と思ってしまう。 社会人になってから、そんな気持ちにさせてくれる場所が、ここくらいしかなかった。画面の中の、名前も知らない誰かから。 **「それ、月城ルナじゃない?」**
そう声をかけられて、僕は反射的にスマートフォンを伏せた。 振り返ると、営業部主任の高瀬美月さんが、トレーを持ったまま少し楽しそうな顔で立っていた。 「あ、高瀬さん…すみません、ちょっと音量が」 「隠さなくていいよ。私も好きだから」 「…え?」 僕は、一瞬自分の耳を疑った。 まさか、推しを同じくする人が同じ会社にいるなんて… 「歌枠の声が好きでさ。あと深夜のラジオっぽいやつ。ゆっくり話してくれるじゃない、あの人」 それは、僕が一番好きな配信スタイルだった。言葉を探す間もなく、口が動いていた。 「わかります!雑談の間の取り方が絶妙で、コメントの拾い方も自然なんですよね!押しつけがましくないのに、ちゃんと全部見てる感じがして!」 「そうそう!なんか、"帰ってきた"って気持ちになるんだよね!」 「それです!」 気づけば、僕たち二人分の弁当はすっかり冷めていた。
「あ!もうこんな時間!ごめんね、話しすぎちゃったかな?」 「いえ、全然!こちらこそ、熱が入り過ぎちゃいました…」 苦笑いしてそう返すと高瀬さんは立ち上がって、慌てたように社員食堂を後にした。 「それじゃあまたね、佐伯君!無理しちゃダメだからね!」 「はい、お気遣いありがとうございます!失礼します!」 そう言って僕も椅子から離れると、ふと違和感を覚えた。 「…無理しちゃダメだからね、か」 「…まさか、な」
数週間後の深夜。 僕はベッドに寝転びながら、ルナの配信を再生していた。その日のルナは、仕事の愚痴をぽつぽつと話していた。 「なんか最近、後輩の子のフォローが多くてさ。嫌じゃないんだけど、ちょっとだけ疲れちゃった」 どこかで聞いた話だった。先週、高瀬さんが似たようなことを言っていた。笑いながら、でも少しだけ目が疲れた顔で。 「それに、昨日は営業会議が長引いちゃって…。何時間も椅子に縛り付けられて、最悪だったぁ~…」 昨日の営業会議…? …まさか、うちの部署のことじゃないよな? いやでも、偶然の一致というのもあり得る。 日本全国で営業部なんて無数にあるんだし、これだけで決めるのは―― 「まあでも、無理しちゃダメだからね。私も、みんなも」 その瞬間、僕の中で何かが止まった。 声。話し方。間の取り方。そして、その口癖。 **「…高瀬さん?」** 口に出してみて、背筋が冷たくなった。違うかもしれない。でも、重なりすぎていた。仕事の話の内容も、疲れ方の種類も、そして何より、あの言葉の温度が。
翌日、僕は昼休憩の社員食堂で高瀬さんを見つけた。 「…あの、高瀬さん。突然で申し訳ないんですけど……」 「ん?なに?」 「…月城ルナって……高瀬さんですか?」 一瞬、時間が止まったような気がした。高瀬さんの表情から、笑顔がすっと引いて。それから、小さくため息をついた。
「実はね、気づいてほしかったんだよね」 高瀬の声は静かだった。しかしその目は、どこか楽しそうに光っていた。 「…え?」 「この前佐伯君と話した時、スマホ見せてくれたでしょ?あの時、君のアイコンを見てアカウントを特定したの。コメント欄でよく機材の話してたでしょ?詳しそうだなって思って」 僕は返す言葉が見つからなかった。ずっと自分が気づいたつもりでいた。しかし実際は、最初から手のひらの上だったらしい。 「だから、声をかけてきてくれるの待ってた」 「さ…策士だ……!」 「褒めてる?」 「そういうことにしといてください」 高瀬さんは満足そうに笑ってから、少しだけ表情を真剣にした。
「それでね、本題なんだけど。私のマネージャーになってほしいんだよね、佐伯君に」 僕が何かを言う前に、高瀬さんは続けた。 「コメント欄の管理とか機材チェックとか、そういうのはもちろんなんだけど。これからグッズ製作とかも視野に入れてて。一人じゃ手が回らなくなってきたの」 「なるほど、それで…。配信が終わる頃には、疲れて休むことしかできませんよね」 「だから、負担を背負ってくれる優秀な右腕が欲しかったってわけ。その代わり、推しの活動を一番身近で見られるよ。どう?」 「やります」 「即答!?自分から言っておいてなんだけど、いいの?ほんとに?」 「即答以外ないでしょう。推しが困っていて、僕の力を必要としてくれてる。それだけで十分ですよ」 「へ…へぇ~……。意外と頼れるところあるのね」 高瀬さんは今まで見たことのない顔で笑っていた。ちょっと引いているような気もしたが、勘違いだと信じたい。 そして、これが二人の協力関係の始まりだった。
僕はモデレーターとしてコメント欄に張りつき、荒れる前に対処した。配信前には機材の動作チェックをして、音声や映像に問題がないか確認した。最初はぎこちなかったやり取りも、回数を重ねるうちに自然と息が合うようになっていった。 「お疲れ様!今日のコメント欄、いつもより穏やかだった気がする!」 「お疲れ様です。荒れそうなのが一件あったので、早めに対応しました。ある程度有名になると、どうしてもああいう輩は出てきますからね」 「ありがと、助かってる!」 推しが、笑っている。 照れるでも得意がるでもなく、ただそれが嬉しかった。
数週間後。 その日も僕たちは連れ立って退勤し、高瀬さんの部屋へ向かった。機材チェックをして、配信枠を立ち上げて、コメント欄を確認する。すっかり染みついたルーティンだった。 配信が始まると、僕はモニターの端でコメント欄を見守った。ルナはいつものように穏やかに話し、リスナーのコメントを丁寧に拾っていく。 「今日も来てくれてありがと!みんな今日も生きててえらい!」 画面の向こうのルナと、すぐ隣にいる高瀬が、僕の中で重なっていた。最初は別々に見えていた二人が、今はもう同じ一人の人間だった。 コメントが流れていく中で、一件のコメントが目に入った。
「ルナちゃんって彼氏いないんですか?」 「えっ、なに急に!?」 高瀬さんが小さく笑いながら、チラッとこちらを見た。一瞬だけ、確かに目が合った。 「…いやいや、流石にそれはないだろ……」 コメント欄はわいわいと盛り上がっている。僕はいつも通り画面に視線を戻して、いつも通りモデレーターの仕事を続けた。 ただ、耳だけが少し、熱かった。