ピアノのレッスンをさぼった。 先生の家の前まで行って、インターホンを押せなかったのだ。 自転車に乗ったままハンドルから手が離れなかった。 玄関の前の植木鉢が、先週来たときと同じように青々と茂っている。それだけ確認して、踵を返した。 感情が乗っていない。 先週のコンクールで、審査員に言われた言葉。 「技術は申し分ありません。ただ、何も伝わってこない」 淡々とした口調だった。 それがかえって、じわじわと効いた。 隣で聞いていた母の顔は見なかった。見ることが出来なかった。 ピアノを始めたのは四歳のころ。 気づいたら弾いていた。気づいたら褒められていた。 天才、という言葉を最初に聞いたのがいつだったか、もう覚えていない。 気づいたらそう呼ばれるようになっていて、気づいたらそれが当たり前になっていた。 上手く弾くことが当たり前で、もっと上手く弾くことを求められるのが当たり前で、楽しいとか悲しいとか、そういうことを考える前に指が動くようになっていた。 感情が乗っていない。 そうかもしれない。 感情を乗せろと言われても、何をどうすればいいのか分からなかった。 弾き方は分かる。でもそれだけだった。
あてもなく自転車を走らせていたら、辿り着いたのはショッピングモール。 特に用はなかったが、このまま家には帰りたくなかった。 入り口を抜けて、一階をぼんやり歩く。 平日の昼間だからか、人はまばらだ。 親子連れが多いようだ。 小さい子供が何かを指さして、お母さんがそれを見て笑っていた。 フードコートの方から、甘い匂いが漂う。 吹き抜けの広場に差しかかったとき、ピアノが目に入った。 アップライトピアノが一台、通路の端に置かれている。 古そうだけど、手入れはされている。 誰でも弾いていいという張り紙が貼ってあった。 今は誰も座っていなくて、通り過ぎる人たちも特に気にしていない様子だった。 吸い寄せられるようにして椅子に座った。 レッスンから逃げたくせにどうして鍵盤の前に腰を下ろしてしまったのだろうか。 鍵盤に触れると、冷たかった。 レッスンのピアノでも、家のピアノでもない。知らないピアノだ。 それがなぜか、少しだけ気持ちよかった。 何を弾こうか、と思ったとき、指が勝手に動いた。 子供のころよく見ていたアニメの曲だった。 小学校に上がる前、毎週楽しみにしていた番組のオープニング。 なぜその曲を選んだのか、自分でも分からなかった。難しくもない。コンクールで弾くような曲でも、先生に習った曲でもない。 ただ、耳が音を覚えていた。指は勝手に動いてくれる。 あの頃はこの曲が流れるたびにわくわくした。 ソファの上で正座して、画面に向かって身を乗り出していた。 小さい頃はピアノが好きだった。弾くことが、ただ楽しかった。 いつからそうじゃなくなったのだろう。
「あ!」 突然、大きな声がした。顔を上げると、三、四歳くらいの男の子が立っていた。 目をまん丸にして、口を半開きにして、こちらを見ている。 「○○の曲だ!もう一回弾いてお兄ちゃん!もう一回!」 少し後ろで、母親らしき女性が「ごめんなさい、突然」と困った顔で頭を下げた。 「大丈夫です」と僕は言った。 もう一回、指を動かす。 男の子は体ごと揺れながら聞いていた。 足踏みしながら、手を叩きながら。 終わると「もう一回!」と言った。 また弾いた。「もう一回!」また弾いた。 何度も、何度も。
何度目かのとき、自分が笑っていることに気づいた。 いつから笑っていたんだろう。 ただ、鍵盤を叩くのが楽しかった。 子供のころ、ピアノに触れるたびにわくわくした。 あの感覚が、指の先からじんわりと戻ってきた気がした。 感情が乗っていない、と言われたのに、今は何かが確かに乗っている気がした。 難しい曲でも、完璧な演奏でもないのに。 小さな男の子が、体を揺らして喜んでくれるくらいの何かが。 曲が終わると、男の子はしばらく考えてから、まっすぐこちらを見た。 「ねえ、ぼくもお兄ちゃんみたいにピアノ弾けるようになる?」 綺麗なまん丸の目だった。 「もちろん」と僕は言った。
言いながら、胸の中で何かがほどけた気がした。 うまく言葉にできないけれど、長いあいだ固くなっていた何かが、ゆっくりとほどけていく。 男の子はにこっと笑って、お母さんの手を引っ張って行った。 母親が振り返って、もう一度頭を下げた。僕も小さく頭を下げた。 二人の姿が人混みに消えてから、もう一度鍵盤に向き直る。 そっと指を下ろし、今日練習するはずだった課題曲を弾いてみた。 一小節目。 二小節目。 いつもなら気になっていた小さなミスを、そのままにした。 指は止まらない。 最後まで弾き終えて、しばらく鍵盤を見つめる。 それから、また最初の音に指を置き直す。 もう一回。