「こんなところにお店、あったんだ……」 私がふらりと入ったのは、路地裏の小さな喫茶店だった。 近所にあるのに今まで気付かなかったのは、隠れ家的にひっそりとした店構えのせいだろうか。 ドアを開けると、カウンターの奥にいた店員が振り返った。 二十代くらいの、目元の涼しい女性だ。エプロンの胸元に小さな花のブローチをつけている。 **「お帰りなさい」**
私は一瞬、足を止めた。 聞き間違いかと思ったけれど、彼女はにこにこしたまま、「いつもの席にどうぞ」と奥を示した。 「……ありがとうございます」 なんとなく否定できなくて、私は言われるまま窓際の席に座った。 テーブルの上には、一輪挿しの白い花。 初めて来た店のはず……いや、絶対に。 注文のアイスティーを待っていると、奥から店長らしき男性が出てきた。四十がらみの、人の良さそうな顔をしている。 清潔なシャツの袖をまくり上げた彼は、私に気付くとすぐに近寄ってきて、こう言った。 「今日は早いですね、お帰りなさい」 「……」 「先週の話、どうなりましたか?」 「……先週って?」 「ほら、職場の件」 私には、心当たりがなかった。 この人を知らないし、そもそも……ここに来るのは初めてで。 「すみません……人違いじゃないですか」 「え? 冗談ですか……」
そのとき、一人の客が店に入ってくる。 ハンチングを被った老人。彼は「お帰りなさい」の挨拶に手でこたえると、店内を見渡し、こちらに気付いて声をかけてきた。 「おお、久しぶりな気がするね。この前くれたぬいぐるみ、孫がかわいがってるよ。ありがとう」 私はその老人を知らない。ぬいぐるみなんて渡していない。 「あの、私、来たことない……」 「あ、思い出しました。先月もそんなこと言ってましたよね? そういうアレですか」 納得したというように、店員は続ける。 「いいですけど、先週の写真もグループにアップしておいたんで、見といてくださいね!」 グループ……? スマホを確認しようとして、手が止まる。もし本当にあったら……そう思うと、体が動かなかった。 笑顔が怖い。 悪意というのではなく、ここにいる人たちの笑顔が、どこかずれたように感じられた。 彼ら全員が、私の知らない私を知っている。 じわじわと足元が崩れていくような、そんな気がした。
「……あの、トイレお借りします」 「どうぞ。覚えてますか? 突き当りですよ~」 私は震えないように立ち上がり、トイレに滑り込むと、鍵を閉めた。 落ち着け……。 冷たい壁に背中を預け、息を整える。何かの間違いだ、みんな勘違いしているだけ……。自分に言い聞かせながら、ふと顔を上げて洗面台の鏡を見た。 知らない顔が、そこにいた。 それは私だ。顔も髪も、背格好も。 でも、表情が違う。 口もとがかすかに弧を描き、目の奥が笑っている。 私がしているのは、そんな表情じゃないはずなのに……。
気がつけば走っていた。 店を飛び出して、家のドアを閉めたときには膝が震えていた。 けれど、部屋に入ってみると、そこも様子がおかしい。 キャビネットの写真が、記憶と違う。 ソファのクッション、こんな色だったっけ。 水を飲もうとして冷蔵庫を開けると、嫌いなトマトジュースが入っている……。 ……誰かがいる? 私の知らない誰かが、ここに……。 違う、そんなはずない。 きっと気のせい、それか悪い夢を見てるだけ……。 **「気付いちゃった」** そのとき、声がした。 ……私の声が。
でも、私の口は動いてなんかいない。 その声は、部屋の隅から聞こえてきた。 引き寄せられるように一歩、また一歩、その先には姿見がある。あれは確かに、この部屋に越してきてすぐに私が買った鏡だ……。 その中に、誰かがいた。 私と同じ顔をした、でも私じゃない表情をした、誰かが。 「たまに借りてるだけだから、気にしないでよ」 と、それは言った。 「……あなた、誰?」 「誰って、私だけど」 「違う……!」 「違わないよ。ずっとそうだったんだから」 どのくらい前から? そう聞こうとしたけれど、言葉が出なかった。 代わりに浮かんだのは、断片的な記憶。 気付いたら朝になっていた日。 覚えのない買い物の履歴。 知らない人から届いた、「この前はありがとう」というメッセージ。 全部、これのせいだったの? 「私、けっこう楽しいよ」 と、鏡の中の私が続ける。 「あなたが行かないところに行って、あなたが話さない人と話して。ねえ、考えようじゃない? 普通の二倍、人生を楽しんでるわけだし、悪くないと思うけどな~」 「知らない。返して!」 「はいはい、返すよ。いつもそうしてるし」 そう言って、私は明るく笑う。 「……また、すぐ戻るけどね」
逃げようとした。 でも、足が動かなかった。 意識が端から、じわじわと溶けていくような感覚があった。 ……待って! 私がいる、まだここに……。 でも、体の奥から何かに引っ張られるような感覚がして、抵抗しようとするほど、力が抜けていく。 「残念。逃げられないよ」 暗闇の中で、声が聞こえた。 「……おやすみ」 そして、意識がぷつっと切れた。
「お帰りなさい……あ、さっきはどうしたの?」 と、カウンターの奥で店員が振り返る。 私はにっこり笑い、こう答える。 「ごめんね〜、寝ぼけてたみたいで」 (了)