私の部屋へ蜘蛛が一匹這い込んだというのは、果たして本日未明の出来事であったか、それとも私が生まれる以前から、この部屋には蜘蛛だけが棲み、私は後年、その巣の結び目から滴り落ちた一粒の露に過ぎなかったのであろうか。そのあたりの記憶が曖昧模糊としており、どうにも判然としない。蜘蛛は夜毎、壁という壁を歩く。しかし、壁を歩いているのではない。壁の裏側に貼りついている時の流れに沿って歩いているのである。脚が一歩進むたび、部屋の暦は音もなく裏返る。昨日が畳の隙間へ潜り込み、明日が障子の桟から首を覗かせる。私は、その中間で息を殺し、自らの鼓動だけが他人の荷物であるような心持ちになって、耳を澄ます。すると、天井から細い糸が一本、私の額へ垂れた。私は咄嗟に払ったつもりでいたが、それは糸ではなく、私自身の記憶であったらしい。幼年の私、老年の私、青年の私、壮年の私、共々に余りに可憐な声をば上げて、あたかも数珠のように一本へつらぬかれ、蜘蛛の口元へ静々と巻き取られてゆく。その時、私はようやく悟った。蜘蛛は害虫を食べていたのではない。人間が一生を懸けて紡ぐ「過去」という名の死骸だけを、夜毎、静かに掃除して歩いていたのである。だから、朝になると、人は何喰わぬ顔で覚醒し、自分は昨日から続く自分だと信じ込める。もしも、たった一夜でも蜘蛛が巡回を怠れば、昨日という死骸は部屋いっぱいに腐り始め、窓の外からではなく、鏡の中から夥しい蠅が湧き出すであろう。今も蜘蛛は、柱の影でこちらを見ている。私を見ているのではない。明日の私が、今日の私へ化け損なわぬよう、一本一本、丁寧に粘り気のある糸を結び直しているのである...
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