翌日の放課後、私は真っ先に図書室へ向かった。 瀬野くんは、もうそこにいた。 窓際の棚の前に立って、背表紙を一冊ずつ目で追っている。 こちらに気づくと、小さく笑ってくれる。 その笑顔に少し安心して、私も隣に並んで棚を見上げた。 窓からの光が、本の背をうっすら照らす。 昨日と同じ棚。 昨日と同じ光。 でも今日は、ここに答えがある気がした。 「端から見ていこう」 そう瀬野くんは言った。 「うん」 一冊ずつ、丁寧に抜き取る。ページをめくって、何も挟まっていなければ戻す。 それを繰り返していく。 たいした会話もなかった。 でも、沈黙が嫌じゃなかった。 最初のころと比べると、ずいぶん変わったなと思う。 三十冊ほど調べたころだった。 瀬野くんが手を止めた。 「……森川」 名前を呼ばれたのは初めてだった。 それだけで、何かが見つかったと分かった。
瀬野くんが持っていたのは、薄い文庫本だった。 古くて、表紙の色が少し褪せている。 そのページのあいだから、折り畳まれた紙が出てきた。 これまでのメモとは違う、もう少し厚みのある紙だった。 二人で机に移動して、そっと広げた。 便箋だった。 宛名のところには「佐伯茜さんへ」とあった。差出人は、「水野隆司」。 私と瀬野くんは顔を見合わせてから、ゆっくりと読み始めた。 *** 突然こんなものを挟んでごめんなさい。 いつも本を通してしか言葉を交わせなかったから、 手紙にしてみました。 一度、直接会って話しませんか。 図書室じゃなくてもいい。どこでもいいです。 本のやり取りは楽しかったけれど、 あなたの声で話す言葉を、もっと聞いてみたいと思っています。 うまく言えないけれど、あなたのことが気になっています。 返事は、この本に挟んでおいてください。 待っています。 水野隆司 *** 読み終えても、しばらく誰も何も言わなかった。 『返事は、この本に挟んでおいてください。 待っています。』 でも茜は、この本を受け取らなかった。 受け取れなかったのだと思う。 何か事情があって最後に図書室へ来ることもできないまま、この手紙はずっとここに残っていた。 水野隆司は、返事が来ないまま時間が経ち、この手紙がどの本に挟まっているのか、分からなくなってしまったのかもしれない。 それでも、見つけてほしかったのだと思う。 誰かに。いつか。 「知らなかったんだね、隆司くんは」 と瀬野くんが静かに言った。 「うん」 「返事を待ってたんだ、ずっと」 その言葉が、胸のどこかに刺さった。 待っています、と書いた人は、返事が来ない理由を知らないまま、どれだけの時間を過ごしたのだろう。
しばらくして、水野先生が図書室に来た。 先生は、私たちの顔を見て少し足を止めた。 「また懐かしい本を手に取っているのね」 その視線が、私たちの前に置かれた便箋で止まった。 「それ……」 なぜか、この手紙を水野先生に渡したいと思った。 私は便箋を差し出した。 「窓際の棚の本の中に、挟まっていて」 便箋をゆっくり受け取って、宛名を確かめるように見る。 それから差出人の名前を見た瞬間、先生の手がわずかに止まった。 「……佐伯は、私の旧姓です」 小さな声だった。 「結婚して水野になったから、今は違うけれど」 先生はしばらく便箋を見つめていた。 私と瀬野くんは何も言えなかった。 先生がゆっくりと便箋を読み始める。 その横顔を、私はそっと見ていた。 先生の目が、手紙の最後の行で止まった。 少しのあいだ、図書室がしんと静まり返った。 それから先生は、静かに笑った。 泣いているのか笑っているのか、よく分からない表情だった。 「ずいぶんと時間がかかったわ」 何かを噛みしめるように小さな声が漏れた。 そして便箋を胸のあたりで静かに抱えて、「ありがとう」とだけ言った。 それ以上は何も聞けなかった。聞かなくていいと思った。
図書室を出ると、廊下はもうほとんど人がいなかった。 夕方の光が窓から斜めに差し込んで、床に長い影を作っている。 「よかったね」と瀬野くんは言った。 「うん」 それだけで十分な気がした。 階段を下りながら、ふと気になったことを聞いてみた。 「図書委員じゃない日って、何してるの」 瀬野くんが少し考えるような顔をした。 「ファミレスでバイト」 「どこの」 「駅前のやつ。なんか制服がダサくて」 思わず笑った。 瀬野くんも少し笑った。 「今度、行くね」 言ってから、少しだけ恥ずかしくなった。 でも取り消す気にはなれなかった。 瀬野くんは「どうぞ」とだけ言って、先に昇降口の方へ歩いていった。 その背中を見ながら、私は少しだけ急いで後を追った。 メモがなくても、瀬野くんに会う理由はある。 そのことが、思っていたよりずっと、嬉しかった。