その週は、ずっと雨だった。 月曜も火曜も水曜も、朝から空が重く、昇降口を出るたびに傘を開いた。 雨の日は廊下が少し暗くなって、窓の外が白くにじんで、なんとなく時間の流れが違う気がする。 木曜日の放課後、私は図書室へ向かった。 今日は返却日でも何でもない。 それでも、先週の「調べてみる」という言葉が、ずっと頭の中に残っていた。 瀬野くんがあれからどうしているのか、何か分かったのか、気になったまま一週間が過ぎていた。 扉を開けると、瀬野くんはカウンターの奥の小さな机に座っていた。 何かを広げて、じっとそれを見ている。 「来たよ」と私は告げる。 彼が顔を上げる。 先週と同じ言葉だった。 「ちょうどよかった」と瀬野くんは言って、机の上のものを私の方へ向けた。 「これ、見て」

それは、本の巻末に挟まっていた一枚の紙だった。 縦長の、少し時代を感じる紙。 上部に「貸出カード」と印刷されていて、縦に罫線が引かれている。 今はバーコードで管理しているから、実物を見るのは初めてだった。 「先週のメモが入ってた本、もう一回確認したら出てきた」 と瀬野くんは言った。 「ポケットの奥に挟まってて、最初は気づかなかったんだけど」 私はそのカードをそっと受け取って、書かれている文字を追った。 貸出カード 佐伯茜   4月12日 水野隆司  4月19日 佐伯茜   4月26日 水野隆司  5月 9日 佐伯茜   5月16日 水野隆司  5月23日 佐伯茜   5月30日 水野隆司  6月 7日 「交互に借りてるね」と私は言った。 「うん」 佐伯茜と水野隆司。 二つの名前が、まるで返事をするように並んでいる。 一人が借りて返すと、もう一人が借りる。 また返すと、また借りる。それが、二か月近く続いている。 「普通、こんな借り方しないよね」と私は言った。 「同じ本を、同じ二人が、ずっと交互に」と瀬野くんは繰り返した。 「しかも日付の間隔が、ほぼ一週間ずつ」 私はもう一度カードを見た。 確かに、貸出日の間隔がどれも六日か七日だ。 偶然にしては、きれいすぎる。 「この本を通して、やり取りしてたんじゃないかな」 と瀬野くんは言った。 「でも、どうして直接渡さなかったんだろう」 私がつぶやくと、瀬野くんは少し考えるようにカードを見つめた。 「会えなかった、とか」 「同じ学校なのに?」 「同じ学校でも、話したことない人っているでしょ。クラスが違ったらなおさら」 たしかにそうだと思った。 同じ校舎にいて、同じチャイムを聞いて、同じ廊下を歩いていても、言葉を交わさないまま卒業していく人の方がずっと多い。 そう考えると、一冊の本だけが二人の間を行き来していたことが、急に特別なことのように思えた。 「本の中に何か挟んで、相手に読んでもらって、また返して、また借りて」 「メモを、交換してた」 「そうじゃないかと思って」 私たちはしばらく黙った。 雨が窓を叩く音がしていた。 佐伯茜と水野隆司。 どんな人たちだったんだろう。 もし二人が顔見知りだったなら、わざわざ本を使わなくてもよかったはずだ。 でも、もしあまり話したことのない相手だったなら。 本を借りる。 返す。 また、相手が借りる。 それだけで返事になる。 言葉にしなくても、ちゃんと届いていると分かる。 そう思うと、古い貸出カードに並んだ名前が、ただの記録には見えなくなった。 そこには、声に出せなかった会話が残っている気がした。 「日付、いつのものか分かる?」と私は聞いた。 「年号が入ってない」と瀬野くんは言って、カードの上部を指でなぞった。 「月と日だけ。ただ、このカードの形式、たぶん二十年以上前のやつだと思う」 二十年以上前。 私たちが生まれるよりも前の話だ。

「水野先生って、いなかったっけ」と瀬野くんは言った。 私も同じことを思っていた。 「国語の水野先生だよね。でも、先生は女性だし」 「苗字が同じだけ、か」 「水野なんて、たくさんいるし」 瀬野くんは少し残念そうに目を伏せた。 「そうだけど、気になるよね」 そう言うと、彼は少し笑った。私も少し笑った。 気になる、というのはそれだけで十分な理由だと、最近思うようになっていた。 それに、佐伯茜という名前の方も、どこかに引っかかっていた。 でも何に引っかかっているのか、うまく辿れない。 記憶の奥の方で、何かがぼんやり光っているような感じだけがする。

帰り際に、瀬野くんがもう一度その本を手に取った。 「貸出カードのポケット、もう一回確認してみる」と言って、ゆっくりと指を差し込んだ。 私は鞄を肩にかけながら、なんとなくその手元を見ていた。 瀬野くんの指が止まった。 「……ある」 ポケットの奥から、白い紙が出てきた。先週見たものより、少しだけ古い感じのする紙だった。折り目がついていて、長いあいだそこにあったのが分かる。 瀬野くんが広げる。私は隣から覗き込んだ。 あの丁寧な字とは少し違う筆跡だった。もっとざっくりとした、急いで書いたような字。でも、ちゃんと読める。 『届かなかった手紙を見つけてください』 図書室の外は、まだ雨だった。 届かなかった手紙。 それがどこにあるのか、誰が書いたのか、誰に向けたものなのか、何も分からない。 佐伯茜が書いたのか、水野隆司が書いたのか。それとも、全然別の誰かなのか。 ただ、誰かがずっと前にここへ残したものが、今日の私たちに届いた。 雨の音は、さっきより少し強くなっていた。 窓の向こうは白くぼやけて、校庭も、昇降口も、遠くの校舎も輪郭をなくしている。 それでも、不思議と心細くはなかった。 隣に瀬野くんがいて、机の上には古い本と白い紙がある。 それだけで、次に進む場所がちゃんと見えている気がした。 「探してみる?」と瀬野くんは言った。 先週、私が言ったのと同じ言葉だった。 「探す」と私は言った。 その声に迷いはなかった。