あの雨の日の夜からすべては始っていた。 喫茶店の軒先で雨宿りをしていたら、その人が店の中から現れた。 「これ、使っていいですよ」 彼は私にビニール傘を渡してくれる。 「気が向いたらでいいんで、返しに来るついでにコーヒーを飲んでいってもらえたら嬉しいです」 喫茶店は家から最寄り駅の間にある。その日は友だちと遊んでいたが、帰ってきたところで土砂降りの雨になった。 家に帰るだけだから濡れてもいいと思ったけど、あまりにも激しく降り出したので、雨宿りをしていたというわけだ。 「ありがとうございます。絶対に返しに来ますんで!」 私はその傘を受け取って、その場を立ち去った。
家に着き、傘を閉じる。すると傘の取っ手の部分に、チャームが付いていることに気づいた。 そのチャームはどこかで見たことがある気がしたが、どこで見たのかを思い出せない。 ただそれよりも重要なことに気づく。この傘はあの人の傘だったのではないかということ。 「もしかして私のせいで、あの人は傘なしで家に帰ったんじゃ……!」 翌日は日曜日。 仕事はお休みなので、明日改めて喫茶店に行ってみようと思った。 ただ、混雑した時間に行くと邪魔になると思ったので、開店時間を狙っていくことにした。
カランコロン 「おはようございます!」 「あれ、昨日の……本当にコーヒーを飲みに来てくれたんですか?」 「はい! あとそれと、昨日は傘を貸して下さってありがとうございました。あの、雨に濡れたりはしませんでしたか?」 「えぇ実は……」 「えぇっ!? 私のせいですよね! 本当にすみません! 家に戻ってからすぐに返しにくれば……!!」 「ふっ、あははは。冗談ですよ。折り畳みですが、もう一つ傘を持っていたので大丈夫でした」 私は騙されたことに気が付く。 「もう、ひどいです! 昨日の晩から、もしかして……って思っていたんですから」 「理恵さんは、優しいですね」 「……えっ!? どうして私の名前を……?」 「さて、どうしてでしょう。さっ、カウンターに座ってください。美味しいコーヒーを淹れますから」 マスターが答えてくれなさそうだと思ったので、私はとりあえず言われたとおりにカウンターの席に座ることにした。
それからというもの、私はこの喫茶店の事が気になり、週に1度は最低でも通うようになった。 おかげで他の常連客とも仲良くなり、このお店が10年以上続いているということも知った。 私がこの町に引っ越しをしてきてから5年が過ぎている。ということは、私が引っ越したときから、この喫茶店はあったということだ。 だけど私はこの喫茶店のことを意識していなかったので、ずっと知らずにいた。 (もっと前から知っていたら、通っていたのにな)
「どうしたんです? 上の空みたいですけど」 客足が落ち着き、今はマスターと私しか店にいない。 「もっと前からここのこと知っていたなら―と思って」 「そうですね。まぁ私はずっと前から知っていましたけど」 「あ! それ、私の名前を知っていたってやつだよね!」 「覚えてましたか。理恵さんは薄情ですからね。ふふ」 「それはどういう……」 話を聞こうと思ったところで、お客さんが来てしまい、話が中断してしまう。 その後は、喫茶店がとても混んできたので、私はコーヒーを飲み干してお会計をした。
数日後。 仕事が終わり、家の最寄り駅に着いた私は、大きくため息をついた。なぜならまた大雨が降っているからだ。 「今日は降らないって予報で言っていたのに……」 昔は予報が何であれ、折り畳みの傘をカバンの中に入れていた。 そして、雨が降りそうと思ったら、長傘を持って通勤をしていたが、だんだんとこれぐらいなら雨が降っても大丈夫だろうと思うようになり、長傘も折り畳みの傘も持つことが減った。 「……あれ?」
その時ふと、昔、この駅で誰かに傘をかしたことを思い出した。 ザザッ 「え、いいんですか?」 ザザッ 「でも……」 ザザッ 「俺、この近くで……」 ザザッ ザザッ 「この近くで喫茶店を経営しているので、良かったら飲みに来てください。奢りますから」 「……」
+++「……あーー!!!」+++ 私は喫茶店のマスターとの本当の出会いの日の事を思い出した。 (あれは確か、私が一人暮らしを始めて間もないころだから、5年前) (傘をかした人のお店は知っていたけど、仕事が忙しすぎて後回しにしているうちに忘れちゃってたんだ) (それに、この前、マスターから借りたビニール傘についていたチャームは、あの当時私が傘につけていたチャームだ!) 全ての合点が行き、私は喫茶店に走った。
「マスター!」 「わっ、びっくりした。どうしました? そんな勢い込んで」 「思い出したの。5年前のこと!」 「……あぁ、なるほど。じゃあ、あの時のお礼のコーヒーを淹れないとですね」 マスターは落ち着いた様子で、いつも通りにコーヒーを淹れる。 「ちょっと、なんでそんなに落ち着いてるの? 忘れてた私も悪いけど……」 「ふふ、これでも喜んでいるんですよ。さぁ、こちらにどうぞ」 私がカウンターに座ると、マスターは目の前に淹れたてのコーヒーを置く。 「あとこれも」 そして、その横に折りたたまれたメモ用紙を置く。 「これは?」 それを開くと、そこにはLINEのIDが書かれていた。私は勢いよく顔を上げる。 「あの時はありがとうございました」 「……5年越しだけど、お礼も込めて理恵さんをデートに誘いたいんだけど?」 マスターの初めてのタメ語に私の心臓が大きく音を鳴らす。 こんなにも長い間待ってくれていたマスターの想いに、私は心を奪われてしまった……いや、本当はもっと前から私も―― END