水曜日の放課後、私の足はいつもより少しだけ速かった。 本の返却期限が今日だから――たぶん、それだけじゃない。 廊下を歩きながら、私は鞄の中の本の重さを何度も確かめていた。 先週からずっと、返却日のことが頭の隅にあった。 名前も知らない男の子に、もう一度会える理由があることを、私は思っていたより嬉しく感じていたのだと思う。 でも、図書室が近づくにつれて、少しずつ不安も大きくなっていく。 今日、彼は本当にいるのだろうか。 あの「また」は、ちゃんと約束になっていたのだろうか。 気づけば歩幅は小さくなっていた。 それでも、目の前にはもう図書室の扉がある。 入らないという選択肢はなかった。 本を返さなければいけない――それは、たしかだから。 図書室の扉を開けると、カウンターには彼がいた。

返却本を受け取りながら、彼は少し目を細めた。 「来た」 「来たよ」と答えるように私も言った。 それだけで、なんとなく先週の続きに戻れた気がした。 バーコードを読み取る機械のピッという音。静かな図書室。どこかで椅子が引かれる音。 彼はゆっくり本を受け取って、返却済みの処理を行う。 手際がいいような、ちょっと慣れていないような、絶妙な感じだった。 「あの」と私は言った。 彼が顔を上げる。 「名前、聞いてもいいですか」 少し間があった。 「……いいけど、なんで敬語?」 眉尻を下げてクスリと笑う目の前の図書委員。 「同じ学年かどうか分からなかったから」 先週の会話はなんだったのかというほどぎこちなく答える。 「二年」 「同じだ」 同い年ということになんとなくほっとした。 彼はカウンターの上に肘をついて、少し首を傾けた。 「瀬野遥人。せの、はると」 「森川翠。もりかわ、すい」 聞き取りやすい声が名前を教えてくれる。 それに倣うように私も自分の名前を告げた。 「翠、か」 自分の名前が彼の口から出てきたそれは、確かめるみたいな、それでいてどこか懐かしむみたいな言い方だった。 気のせいかもしれないけれど。

本の返却が終わると手持ち無沙汰になった私はカウンター側にある椅子に腰かけてみた。 すぐそばに「本日返却された本」という張り紙がされたラックがあり、意外にもその冊数は多かった。 もちろんそこには先ほど私が返却した本も並べられている。 ぼうっとそのラックを眺めていると、瀬野くんがカウンターから出てきた。 そして、返却本の並ぶラックにそっと手を置く。 「気になる?」 どうだろう? ただなんとなく見ていただけのラックが、瀬野くんにそう言われた途端、急に意味ありげに見えてきた。 それからどういうわけか私は瀬野くんの後をついていき、ラックの本を本棚へと戻す作業を手伝った。 「委員じゃないのに手伝ってもらうのも悪い」と瀬野くんが言ったけど、私が「なんとなく動きたい気分だから」と言ったら、それ以上は何も言わなかった。 本棚のあいだを歩きながら、背表紙の文字を確認して正しい場所へ差し込んでいく。 たいした作業じゃないけど二人でやると不思議と会話が続く。 本の話、クラスの話、授業の話。 取り留めのない話が棚と棚のあいだに散らばっていく。 「図書室、前より嫌いじゃなくなった」と私は言う。 「前は嫌いだったの」 「ん~、嫌いっていうか落ち着かなかった。ここにいていいのか分からない感じがして」 「分かる気がする」と瀬野くんは言った。 「俺もくじ引きで図書委員になるまで、来たことなかった」 「それで今は?」 「……悪くないと思ってる」 そう言いながら彼は一冊の本を棚へ戻す。 その横顔が、少しだけ照れているように見えた。

最後の一冊を棚へ差し込もうとしたとき、それは落ちてきた。 白い、小さな紙切れ。 先週見たものと同じ大きさ、同じ質感。 私と瀬野くんは同時にしゃがんで同時に手を伸ばした。 先に拾ったのは瀬野くんだった。 彼はそれを広げて、すぐに眉を寄せた。 「……なんて書いてある?」 私が覗き込むと、あの丁寧な字が目に入った。 『この本が、最初ではありません』 私と瀬野くんは、同時に本棚を見上げた。 並んでいる本の背表紙が、静かにこちらを向いている。何百冊もの本が、何も言わずにそこにある。 「最初じゃない、って」と瀬野くんはゆっくり言った。「じゃあ、前にも誰かが……」 言葉が途中で止まった。 私にも、続きは分からなかった。 ただ、あの丁寧な字は確かにそう言っている。 この本が最初ではない、と。 先週のメモも、今日のメモも、もっと前から続いている何かの一部なのだと。 図書室の外から、部活の声が聞こえてきた。 いつもの放課後の音。 なのに今日は、同じ場所が少し違って見える。 「調べてみる?」と私は言った。 瀬野くんは少し考えてから、頷いた。 「来週も来れる?」 「来る」 今度は迷わなかった。 白い紙を本に挟み直して、私たちはそれを棚へ戻した。 この本は、ただそこにあっただけなのか。 それとも、ずっと前から、誰かの約束をつないできたのか。 図書室を出ると、廊下の窓から夕日が差し込んでいた。 先週と同じ光なのに、今日は少し違って見える。 隣には、瀬野くんの影があった。