夕方の青暗い空を見上げると、雨の香りがする。6月の蒸し暑さは今年もかなりのものだ。 体育館に響くシューズの音は、二十五年前と少しも変わっていなかった。 迎えの車を停めた駐車場から、明かりのついた古い体育館の窓が見える。ガラス越しに、ボールが床をつく音、短いホイッスル。誰かの掛け声がにじんで届く。娘の葵は、まだコートの中にいるらしい。 中学三年生。受験生。バスケ部。 頭の中で並べると、里美自身の十五歳とそっくり重なる。葵が今ドリブルをしているあの床を、里美もかつて、同じシューズの音で蹴っていた。 三年生の夏。塾の夏期講習に行くことに決めると同時に、彼女は部活を辞めた。勝ち進めていれば、最後の大会が二週間後だった。受験が一番大事に決まっているでしょう。将来プロの選手にでもなれるなら別だけど。母にそう言われ、自分でもそう信じた。賢い選択をしたつもりだった。勝ち進むこともできず、勉強にも身が入らず、引退後も体育館に遊びに行くチームメイトを横目に、私はやるべきことをやっている、と自分に言い聞かせた。その夏の体育館の音を、里美は長いあいだ、思い出さないようにして生きてきた。 葵は、違った。 「ぜったい勝ち進んで、最後の大会まで、続ける」夕飯の席でそう宣言した娘に、里美は思わず眉を寄せていた。「受験はどうするの。みんな、もう引退する時期でしょう」 「みんなじゃないよ。私が決めることだもん」 葵は箸を止めもせず、けろりと言った。 その夜、里美の胸には説明のつかない感情がつっかえていた。娘のことが心配なだけではない。どこかに、軽い失望に似たものがあった。私はあんなに我慢したのに。ちゃんと諦めたのに。どうしてこの子は、こんなにあっさり、両方を欲しがることができるのだろう。 **――欲しがることができる。** その言葉が浮かんだとき、里美は自分の心奥にあった本音に触れた気がした。**私は、葵が羨ましいのだ**、と。 迎えの車の中で、葵はいつも疲れ果てている。シートに身体を沈め、窓に頭をもたせかけて、それでも口元はかすかに笑っている。 「今日、フリースロー十本連続で入った」 「すごいじゃない」 「でも明日、模試なんだよね。全然、頭に入ってこない」 そう言いながら、葵は少しも後悔していない顔をしている。点数のことより、十本入ったことを話したがる。自分が十五歳のときに、こんな表情で親に気持ちを話していただろうか。 信号待ちのあいだ、里美は隣の横顔をちらりと見る。自分が十五歳のときに手放してしまったもの。賢く、正しく、整然と諦めた、あの夏の体育館の音。葵はそれを手放していない。同じ分かれ道の前に立って、別の道を選んで歩いている。そして――なにも後悔していない。 私は、間違っていたのだろうか。
いや、と里美は思い直す。あのときの自分には、あれが精一杯だったのだ。十五歳の里美は、欲張る方法を知らなかった。両方を抱えていいのだと、誰も教えてくれなかった。正しく諦めることが、大人になることだと信じていた。 だからきっと、私は今、もう一度この音を聞きにきている。 体育館のシューズの音。床を蹴る音。あの夏、自分が背を向けた音。葵を通して、里美はもう一度、十五歳の自分の隣に立っている。今度は、辞めないでいる自分の隣に。あのとき選べなかったもう一つの自分を、娘がコートの上で生きてくれている。 それは過去のやり直しではない、と里美は思う。私はもう、引退試合のスタンドに戻ることはできない。けれど、これから先、何かを諦めかけるたびに、私はきっとこの夏を思い出す。両方を欲しがってもいいのだと、教えられた夏として。 体育館の扉が開いて、汗だくの葵が駆けてくる。 「お母さん、最後の試合、応援に来てくれる?」 信号が青に変わる。 「行くよ」 里美は答えた。声が、少し掠れた。 二十五年越しに、自分の引退試合を見にいくような気がした。あのとき終わらせてしまった夏の、続きを。