家に帰ってから一時間。 結局、なにもしていない。 スマホを取り上げては、また手放すを意味もなく繰り返しただけだ。 何も考えていなかったのかな、とここ一週間くらいを振り返ってみる。 会社に連絡しなきゃ、とは思っていたものの漠然と「まあ、家に着いてからでいいか」と考えるのを避けてきた気がする。 考えてみたら、声が出ないんだから電話ができるわけもない。 電話ができないというのは、なかなかに不便だ。 「退院しました、ご迷惑おかけしました」を文字面で書くのは簡単だが、半年間休んでいた復帰のあいさつをメールでというのもなかなか失礼な気がする。 上司には、ちょいちょい、メールで報告を入れていたものの、具体的な話は避けていた。 「いつ退院する」は伝えていたが、「声が出なくなる」は、事前に伝えていなかった。 果たして、それを文字面だけで伝えていいものか、さっきから一時間考えているのだが、答えが出ない。 普通に、メールじゃ失礼だし、怒りを買うだけのような気がする。 かと言って、退院の報告を当日にしないのもなんだかと思う。 今日が退院だと、伝えてはいたからだ。 何もかもが面倒くさすぎる。 俺は、一旦考えるのをやめて、体が望むままにベッドに寝転んだ。 時計は、16時を指している。 油断したら、このまま今日が終わってしまうかもしれない。 が、今はどうでも良かった。
辺りが暗い。 ハッとして体を起こす。 どうやら、眠ってしまったらしい。 反射的に時計を見上げれば、夜の7時になっていた。 会社の定時は17時半なので、もうほとんどの人は退社しているだろう。 遅かった。 「しまった」と思ったものの、次の瞬間には「まあ、いいか」に気持ちは変わっていた。 仕方なく、上司に「本日、退院しました。諸事情によりご連絡できなかったため、明日、伺います」とだけメールで連絡を入れておいた。 今日は見ないかもしれないが、もういい。 ここで大事なのは、当日に連絡をしたかどうかだ。 メールで連絡をしておけば、とりあえず当日に連絡はしたんだという証拠が残る。 証拠を残すのが大事だ。 ソファに寄りかかって寝ていたせいで、尻と首が痛い。 うたた寝はするもんじゃない。 入院中は、常にベッドの上だったから、うたた寝も日常茶飯事だったわけだが、その癖は直さないといけないな。 会社に戻ることを考えたら、体力作りもしないといけない。 その前に、まず部屋の掃除だ。 たまっている書類も片付けないといけない。 もちろん、母のことも気がかりだ。 考えるだけで、脳みその体力が消耗していく。 もう、今日はいい。 とりあえず、何か食べよう。 そう思って、重い腰を上げた。 コンビニで何か買ってくるか、牛丼でも食べに行くか。 どちらにしても、たぶん大丈夫だ。 声が出なくたって、なんとかなる。 もともと、俺は無口なたちなんだ。 他人と会話をしなくたって、今の世の中生きていけることぐらい、わかっていた。
「783円です」 そう告げたきり、派手なピンク髪の店員は電子レンジに向かうため背を向けた。 今どき、支払はレジスターに直接現金をぶち込むかQRコードを向けるだけなので、店員の顔が見えていなくても関係ない。 俺は、財布から現金を取り出してそそくさとレジに投入した。 支払さえ終えればこっちのものだと思って、ちょっとほっとする。 「お箸はどうします?」 と、背中を向けたまま店員が話しかけてきた。 俺は、店員の背中に向かって「要りません」をはっきり示すように、顔の前で手を振った。 もちろん、店員は俺のことを見ていない。 おいおい、こっちはしっかり意思表示してるってのに。 「ブウーン、チン」の音がして、店員が面倒くさそうに振り返る。 「お箸」 俺は、あらためてピンク女の顔をしっかり見ながら、手をふりふりした。 「あぁ」と、ピンクが小さくつぶやいて、俺に弁当が入った袋をよこした。 一応、用意していたんであろう割り箸は、割りばしのストックの中へ雑に投げ入れられるのが見えた。 「ありがとうございまー」 尻すぼみな言葉は、ほとんど「ました」が聞こえなかった。 彼女にしたくないタイプ、ぶっちぎりでナンバーワンだなと思いながらも頭を下げて店を出る。 コンビニに入る前よりも、格段に嫌な気持ちになっていた。 夜風は気持ちいいが、胸糞悪くて仕方ない。 思わず、軽く舌打ちした。 俺は、あいつのことを超嫌な店員だと思ったけど、もしかしたら俺だって「横柄で鼻につく客だ」と思われたのかもしれない。 言葉が出ない分、俺のほうが分が悪い。 あんな女に「嫌な客」と思われたのかもしれないと思うと、悔しかった。 悔しい。 もちろん、反論は出来ないし、否定もできないけど。 話せないってのは、不便なことだ。