episode.1 退院
話しができない男、地図が見えない女
「退院、おめでとうございます」 その言葉を、ありがたく受け止めるべきか、生意気に突っぱねるべきか、迷った。 退院はめでたいと思うけど、気持ちはちっともめでたくなんかない。 笑顔で拍手を送ってくれる病院の先生方、看護師さんたちに、どんな顔を向けたらいいのかわからない。 気持ちのいい晴天、晴れの日とはまさに今日のことだろうって感じであるが、俺の気持ちはちっとも晴れ晴れしくなかった。 結局、ちっとも上手くない笑みを浮かべて、中途半端に頭を下げて、病院を後にした。 半年以上、お世話になったのに。 人としてどうなんだろうな、とはタクシーの中で反省した。もう、遅いけど。
半年ぶりに、玄関のドアを開けた。 ただ、実際には母親が何回か来てくれたはずだ。公共料金の領収書、税金を支払った領収書、封書や保険関係の手続きの書類などが、整理されてローテーブルの上に置かれていた。 母は、色々あって体調を崩しているらしい。 いらん心配をかけてしまったなと、反省する。 30代独身男、働き盛りで元気だけが取り柄なはずなのに、まさか半年も入院してしまうなんて。 思わず、ため息が漏れる。 なにをやっているんだか。 今度、母のお見舞いに行かなくちゃいけないな。 ただ、その前に…。 ベッドに腰かけて、スマホを取り上げる。 気が重いが、連絡をしないわけにいかない。 電話帳の画面を広げて、目当ての連絡先を見つけた。 しかし、電話じゃ意味が無いんだと思い当たる。 ベッドにスマホを落として、右手で喉に触れた。 深呼吸すると、手に触れた傷跡がひきつれていたんだ。 包帯の下には、手術の跡がある。 消せない大きな傷跡。 俺は、この夏、病気で声帯を失った。
大きくなったら
みずきちゃんが帰ってくる。 小学校に上がる前、「大きくなったらお迎えに来るね」そう言って引っ越していったあのみずきちゃん。 私の記憶の中のみずきちゃんは、くりくりした目で、ショートカットがよく似合う女の子。 家が近くてよく一緒に遊んでいたけれど、お父さんのお仕事の関係で海外に転勤になったらしい。 そのみずきちゃんが、またご近所に戻ってくるんだとお母さんが教えてくれた。 きっととんでもない美少女になっているはずだ。 どこの高校に入るんだろう。もしかして同じ高校だったりして。 早くみずきちゃんに会いたい気持ちが募る。
転入生が来ると聞いたのは朝のホームルームの五分前だった。 隣の席の子が教えてくれて、なんとこのクラスにやってくるというのだ。 もしかしてみずきちゃんかも。 期待が胸の中に沸き上がる。 そして教室の扉が開いた。 先生の後に続いて入ってきたのは長身の男の子。 それもとびきり美形な。 教室にいる女子たちが分かりやすく色めき立った。それくらい綺麗な男の子だった。 私はというと、みずきちゃんじゃなかったことにほんの少しだけ残念に思いながらも、クラスメイト同様、綺麗な男の子に注目していた。 「水谷みずきです。よろしくお願いします」と言ったその声も低くて、教室の温度が一度上がった気がした。 でも彼は、挨拶が終わった瞬間に教室を見渡して、私のところで視線を止めた。 そして、笑った。 周りの騒ぎが、どうでもよくなったみたいな顔で。
彼が着席したのは私の斜め後ろ。 授業中も、休み時間も、なんとなく視線を感じた。 気のせいだと思いたかったけれど、目が合うたびに向こうが先に笑うから、気のせいじゃなかった。 そして昼休み、とうとう声をかけられた。 「覚えてる?」 開口一番それだった。 自己紹介でも世間話でもなく、覚えてる、から始まった。 「……みずきちゃん?」 言ってから、自分でも混乱した。 目の前にいるのは、どう見ても男の子だ。 背は私より頭一つ以上高くて、声も低くて、みずきちゃんとは何もかもが違う。 「そう」と水谷くんは言った。あっさりと。 「大きくなったから、迎えに来た」 「……約束、覚えてたの」 「覚えてたよ。ずっと」 そう言われて、ずっと忘れていた場面が急に浮かんだ。 引っ越しの日、家の前で泣いていた私に、みずきちゃんは少し困った顔をしていた。 「大きくなったら迎えに来るね」 たぶん、子供同士の慰めみたいな言葉だった。 私だって本気にしていたわけじゃない。 それなのに、目の前の水谷くんは、その言葉だけを本当に大事そうに持って帰ってきたみたいだった。 当たり前みたいな言い方だった。 十年近く経っているのに、ずっと、と言い切れるのがすごいなと純粋に思った。 それと同時に、どうしていいか分からなくて、目を逸らした。
放課後、下駄箱で靴を履き替えていたら、後ろからついてきたのは水谷くん。 「帰り、同じ方向」 「……そう、だね」 「あの家に戻ってきたよ」 こちらを覗き込むその笑顔は少しだけ心臓に悪い。 並んで歩くと、水谷くんの背の高さがよく分かる。 私の身長は彼の肩あたりまでしかないんじゃないかな。 なんとなく落ち着かないのはこの身長差のせいなのか、みずきちゃんがみずきくんだったからなのか、はたまたこんなかっこいい人と一緒に歩いているからなのか。 段差に気づくのが遅れた。 つまずいて、前のめりになった瞬間、腕をつかまれた。 そのままぐっと引き寄せられて、気づいたら彼の腕の中にすっぽりと、入ってしまった。 「大丈夫?」 頭の上から声がした。近い。心臓がうるさかった。 ありがとう、と言おうとして、うまく声が出なかった。 顔を上げると、水谷くんが右手で前髪をいじっていた。 照れてる、と思った瞬間に、昔の記憶が重なった。 くりくりした目の、ショートカットのみずきちゃん。 転んで泥だらけになった私を助け起こしてくれた。 「ありがとう」とお礼を言うと照れくさそうに右手で前髪をいじりながら、大丈夫? と聞いてきた、あのみずきちゃん。 「……みずきちゃんだ」 思わず、口から出た。 男の子になったとか、背が高くなったとか、声が低くなったとか。 そういう違いは、たくさんあった。 でも、前髪をいじる右手と、少し照れたときの目のそらし方だけは、昔のままだった。 私の知っているみずきちゃんは、ちゃんとここにいた。 水谷くんは少し目を細めて、また笑った。 さっき教室で見せたのと、少しだけ違う顔だった。 どこか、懐かしいような顔だった。 「やっと分かった?」 心臓が、もう一度うるさくなった。